はてなダイアリー平民新聞

創業2002年か2003年、平民金子の元祖はてなダイアリー日記です。

ピクニック

ジャン・ルノワールの『ピクニック』がAmazonプライムビデオにあった(あるんだ……)ので再生ボタンを押してぼんやり見ていたのだが、これって作品が作られた当時の背景とか最低限の予備知識があって、そして「あの、妄想だけがふくらんでいた『ピクニック』がようやく日本でかかるのか!」みたいな感動とかがあって、電車に乗ってアテネ・フランセに行き40分でなんで1本ぶんの値段やねんとか思いながら千数百円を払ってチケットを買って席につき……みたいな物語があってこそ「おお……」と思える作品だなと思った次第です。なんの動機もなく、まあゆうたら苦労もなく、金銭的なハードルもなく(プライム代払ってるからタダじゃないわけだけども、そういう話ではないのだ)、家にいて、ただ「あったんや〜」くらいの感じで見てもそこからは何も得られない、そこから何かを得られるほど芸術ってのは甘くない、とまで言うとあれだけどよ、でもそういう種類の作品って確かにあってですな、『ピクニック』はそういう種類の作品ですわな。言い方を変えると、私は家でぼんやり見ていてこの作品をつまらんと思ったわけだ。作品受容ってのは難しくて、作品そのものこそが作品だっていう見方もあれば、作品そのものだけが作品じゃないやろ、てのもある。年齢を重ねるほどに、後者の重みがよくわかる。
子供と接していると、そういうことを考えざるをえないわけです。
たとえばうちだと私がアップルミュージックに入ってるからほぼ無限の音楽を子供は「そこにあるのが当たり前のもの」として聴けるし、映画なんかでもそうで、その環境で、どこまで作品受容が成立しうるのか、いや、そもそも作品受容とはなんなのか、みたいなことは、考えない親も当然いるだろうが私はそういうことはよく考える。
でもさっきの話でいうところの後者ばかりを考えて「作品受容っつうのはなあ」みたいな頭になっていると、私は子供に対して昔話ばかりをする感じになるので、たぶんそれは間違っているのだ。どこかで私は頭を切り替えないといけない。
いや、今のは無理やりゆうたな。ニセの宣言をしてしまった。
でも実際今と昔は違うから。古い世代の体験つうのか受容っていうのはしょせん古い世代の受容でしかない。新しい世代には新しい世代の何かがある。
そこがなかなか切り替えられへんのよなあ、みたいなところを、思い出させてくれる作品である。
最近見た中山岩太の写真展とかちょっと前の安井仲治の写真展(どっちも兵庫県美)でも同じようなことをしみじみ思った。たとえば、グレン・グールドが演奏する『ゴルトベルク変奏曲』ありますでしょ。あれってピアノのことなんて何も知らんでも「なんか高尚な世界ですな……」みたいなことがわかるわけです。でも安井仲治とか中山岩太の写真ってその多くの部分は、彼らが行きた時代背景とか当時における写真とは、写真表現とは、みたいな知識がないとただ「つまらん」てなる種類のものだと思うんですよね。そのへんは同じ県美でやってるあれにしても藤田嗣治の絵とは違う種類のものだわなあと。