1月3日。妙法寺で追儺式という行事があるらしい、という情報をXでがんそべっしょマンさんが書いていて、添付されていた昨年の写真を見ると、腰に刀をさした、白装束を着て土色の仮面をかぶった鬼?のような生き物が、腕や足や胴体やらをハムのように縄で縛り、火のついた松明を持っている姿が写っている。それを見ても何の行事なのかはまったくわからない。謎そのものである。正月の予定もないし、ひまなわたしたちにぴったりだ。そう思い、どうせなら子供の冬休みのトレーニングも兼ねて山登りとドッキングさせて予定を組もうと地図を見て検討した結果、高速長田駅から長田神社を通って高取山に上りそこから妙法寺に下るというルートを取ることにした。妙法寺方面から高取山に上って長田の丸山〜鵯越方面に下りるという六甲全山縦走路ルートは歩いたことはあるが、神社裏からのルートでは上ったことはない。

高速長田駅で電車をおりて、さて何番出口だっけ、と思ったが適当に階段を上るとそこはもう、さすが長田神社である。いかにもこれから正月の参拝に行きまっせというような人の流れが出来ていて、人々について歩くと迷いもなく参道に出た。非常食としてパンは持ってきていたし、それに正月の高取山に行けばどこかの茶屋があいているだろうからなんなら昼ご飯は茶屋で、などと考えていたのだが、参道の商店街を歩くとみたらし団子が路面販売されており、山頂についたら団子で乾杯しよう、とついつい衝動的に3本買った。ういろ屋の前も通りかかったのでういろうも買ってしまった。前日に三宗さんからおせち料理のおすそわけをもらっていたので三宗さんのぶんも買った。できたてのういろうがまだあたたかい。

長田神社には露店がたくさん出ていたので店をひやかしたりしてのんびりしたかったのだが、今が11時すぎでゴールの妙法寺に15時到着というノルマがある。ヤマレコの予想時間を見るとだいたい3時間くらいの道のりになっているので、なんぼ正月のめでたい長田神社、素通りしにくいといえども、山登りのスタートもしていないうちからここでのんびり過ごすのは(到着時間的に)危険である、というのは数少ない山の経験からも判断できた。そういや昨日は楠公さん(湊川神社)ものぞいてきたんやけど、まああっちはあっちでええんやけれどぼくはこっちの神社のほうが好きかも、みたいなことを妻に話しかける。長田神社に来ると、なにせなつかしいのだ。そのなつかしさの起点は30年前の避難所になっていた時代の風景である。

今日はこれから山を越えねばならないのだ。過去の記憶をたぐっている場合ではなくて、と冷静になりうしろ髪を引かれつつ神社を出、川ぞいの道をヤマレコのアプリを見つつ歩く。少し歩けば登山口に出るはずである。民家と民家にはさまれた細い道を歩き坂をのぼり、人通りもなかったのでスマホ画面を見ながらぼんやり歩いていたのだが、途中からなんだか知らない道を歩いている感覚が薄くなってきてひさしぶりに帰った故郷の町をおぼろげに残った記憶をたしかめながら歩いているような、というような表現は後日この文章を書いている今、こうやって陳腐な言葉にしているだけで、実際の道を歩いていた瞬間には未だ言葉にはなっていない不可思議な感覚だけがあった。
不可思議な、ではなく、わたしはあの頃のままの景色の中を歩いていた。
左手にひろがるフェンス越しに見えた、小学校のグラウンドの風景に吸い寄せられた。
「うわあ」と声が出て、門のすきまにスマホのカメラを押し当てて運動場の写真を撮った。すると横で見ていた子供が困った顔をして「やめてー」と言い、「そんなことをしたら不審者だと思われる」とわたしの腕をひっぱった。
「そら、そやな」と言いながら子と並んで歩き、歩いた先の歩道橋を渡りながら、わたしはとつぜん起こった予期せぬタイムスリップを反芻していた。あの運動場、あの校舎の感じ。30年前にボランティアとして避難所を回っていた時に、毎日訪ねていた小学校だった。開いたままの門から入ると1階の教室が避難所になっていてたくさんの人たちや家族が生活していた。私らよりもあんたらが食べなあかんやろとおばあさんが配給の菓子パンをくれたりした。あの運動場の片隅で炊き出しの雑炊を食べた。
そんな場面を細かく思い出した。
何もかもそのままである。もしかしたらそのままではなくて整備されたりとか、実際は変化しているのかもしれないけれど、何もかもそのままでそこにあるように感じられた。

歩道橋を渡り終えて少し歩くと登山道の階段に出る。
そこを上っている時にも頭をがつんと打たれたみたいに思い出したのだった。ある時、ボランティアの仲間から「あの階段をのぼっていったら町を見下ろせるんやで」「海が見えるよ」「いっしょに行こうや」と誘われた。そのとき私は「いやだ」と断った。
あの階段が、この階段なのか、その階段を、30年たって上っている。
記憶が次から次にやってくるのだった。
妻と子と3人で同じ日に同じ空の下で同じ階段を上っているのだが、わたしの周りにだけ強い風がふいていて、そこには過去の記憶のこまごまとした情景が、細かなあられのように舞っている。特にこげた木造家屋のにおい。屋根の上のブルーシート。夕焼け。皮膚にあたるとあたった部分がひやっとなる感じの、マフラーをしていないものだからふいに小さな粒が首の中に入ってきて「つべたっ」と身をすくめてしまう、記憶のあられが舞う中を、できたさぶいぼをさすりながら階段を上っていく。
「ああ、最近運動してなかったからしんどい」と言う妻の声と、どこからか拾った棒切れで地面をつつきながらついてくる子供がたてるツコン、ツコン、という乾いた地面の響き音がきこえる。時々きこえる2人の話し声。音はそれしかない。少しずつ距離が離れてきたのだろう、音が遠くなった妻と子を待つように立ち止まり、うしろを振り返った。冬の薄い青空と、長田のうつくしい町があった。空と町のさかいめには時間が止まったままのでっかい海が見える。きれいやなあ。こらきれいやわ。
階段をのぼりながら、ここ、30年前に……みたいな話をしたくなったけれど、それは妻にも子にもなんの関係もない話である。もしもあの頃この階段を上って、そして振り返っていたらどのような景色が見えたのか。今はとてもすばらしい。焼けた家のあちらこちらに突きささっていた手書きの位牌とか、避難所で声をかけてきた子供たちとか自衛隊の風呂とかが小さな粒になって空に舞っている。寝泊まりしていたテントの近くにあったから時々手を合わせていた焼けた家屋にそなえられていた写真も粒になって舞っている。そこに写っていた子供が今のうちの子と同じくらいの年齢である。
だからなに、という話ではない。年をとらないとわからないことがほんとうにたくさんある。30年前には何もわかっていなかったことだけれど、少しずつでもわかってきた、みたいなことがけっこうある。高取神社までの道はどこまでも整備されていて階段もおだやかで歩きやすい。普段は山に行かなさそうな家族連れ、ヒールで上っている人もそれなりにいる。途中のベンチで休憩していると、わたしたちの横に1人で歩いて来た老人が座り「毎年来てるんやけど、もうさすがにしんどいな」と言う。「毎年っていうとずいぶん昔から?」「そうやな」「このあたりは歩きやすいですね。すごくいい道で」「すっかりさびれてしもたな。昔はもっとにぎやかやったけれど」
途中、なんとなく期待していた茶屋は閉まっており、年に一度だけ開かれるという茶屋があったので立て看板のメニューを見て「ぼく山菜うどん」「わたしも山菜うどん」「山菜うどん」などとそれぞれに食べるものを決めてすっかり山菜うどんの気分になっていたが店の前まで来て中をのぞくと満席だったのであきらめた。先ほどしゃべった老人をまた追い抜き、そして小休憩しているときにまた追い抜かれ、山頂でまた顔を合わせ、互いに笑いあう。老人が「がんばったね」と子に声をかけている。ささやかなやりとりだけれど、彼と会う機会はもう二度とやってこない。
山頂の景色を眺める。なんやかんやで時々来る山である。ここからもう一回あの上まで上ったほうが景色がさらによくなるで、と階段を上がる。

妙法寺までの道はなかなかの急坂であった。
行きの、どこまでも丁寧に整地された階段とは違いそのままの土やら岩やらのあいだに無数の落ち葉が覆いかぶさっている。子供の足では無理、というわけではないが、特に秋冬は落葉がいちいちすべるから、スニーカーしかない人はこのルートはおすすめはできない。「登山ゆうのは上る時よりも下る時のほうが危ないしコケるから!」などと言いながら、いちおう妻と子の前ではわたしは先輩登山者であるので注意ゾーンのアドバイスをする。そうやって夢中でしゃべってる時にコロっと谷にコケたらいっしゅんであの世行き!などと声をかけながら。茶屋休憩がなかったぶん、このまま行くとずいぶん早く到着しそうな感じにだったので、途中からはゆっくりと、きれいな花崗岩を探しながら歩く。
「あ、団子わすれてたな」と高取山を下りた先の小さな公園で、1本ずつ食べた。前回みたらし団子パーティをしたのはいつだったか。そんなに遠くないのにずいぶん昔のことのように思える大阪万博の時、8月だった。せっかくみたらし団子パーティをしようと15本も持っていったのに、その日は風が強く子供がセブンイレブンで買ったカフェラテのふたを何度も風に吹き飛ばされているその様子にイラッとし、わたしが「次にふたをとばされたら帰るからな!」などと怒り出し、妻も子も、パーティ会場が一瞬で微妙な空気になってしまった、あれおぼえてる?(わたしの態度が)ひどかったな、と子供に聞くとよくおぼえてる、と子は言い、今日は平和や、とわたしたちは初めて来た公園でみたらし団子で乾杯をする。

あの頃10代だった自分が今年から50代である。当時は戦後50年という言葉をニュースや新聞でよく聞いた。まだネットもなかったから多くの人がテレビのニュース番組や新聞を見ていた。大きなメディアを元にした共通言語があった最後の時代か。戦中世代はごろごろと生きていた。ニュースキャスターが「北朝鮮」とは言わず「北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国」と言っていた時代である。中国残留孤児とかボートピープルとか……はもう少し前か。この20年くらいテレビのニュースは見ていない。1995年というのは自分にとってはついこの間みたいな感覚なのだが、大谷翔平が1歳の時で井上尚弥が2歳である。彼らがもうそれぞれの世界でベテランであるから、これからはスポーツにしてもその他にしても震災後に生まれた人たちが作る世界をわたしは見ていくし、中谷潤人は震災後の子供である。こんな感じで年をとっていくのだろうな、と理屈ではわかるが、実感としては今いちよくわからない。わたしは体験とか記憶なんかは継承しなくてもよいと思っているので子供には震災にしても戦争にしてもなにかを教えたことはない。教科書で、遠い時代の織田信長みたいな話として知っておく、くらいの距離感でいいのだろう。子供は私の人生や記憶とは関係なく、今の時代に生きているのだから。過去のことは何も知らなくていいとさえ思っている。
時間通りに妙法寺に着いた。

