はてなダイアリー平民新聞

創業2002年か2003年、平民金子の元祖はてなダイアリー日記です。

朝顔の青い鉢

プールの見守り活動をしながら、いつも思うように、子どもたちの楽しそうな感じとはまったく逆にわたしは「せつない」を100回くらい心の中で繰り返していた。こんなにも青い空、水色のプールと水しぶき、はしゃぎ回る子どもたち、見学の子の気怠そうな様子、目にうつるすべてが日の光に輝いているのになぜこんなにもせつないのか。こんなにせつないことってないだろう。でもただのプールの見守りでそんな風にせつなさに追い詰められているのは自分だけかもしれない。みんなどう感じているんだろう。そんなことを考えながらプールサイドで水まきをした。水まきをしていると自然と子どもたちが寄ってくる。そこにホースの水を向けると子どもたちが喜んでくれる。この動作はべつに自分がえらくなったわけでもないし自分に魅力があるわけでもない、ただホースと水だけが偉いのにもかかわらず、水をまいている自分の目の前で子どもたちがはしゃいだ様子をみせるとわたしの存在が格上げされたような、自分には特別な能力があるのだというような、存在が世界から承認されたような気になってくる。目の前で水をはじく知らん子どもたちの群れはゼルダの伝説に出てくる妖精みたいになぞに神々しい。

これは自分がえらいのではない。ホースと水がえらいのだ。そう思って、自分の隣のスペースでひまそうに立っていた別の母親のほうに行って「これ、やりますか?」とジェスチャーで示した。何度も来ている親の場合はこういう場所での過ごし方にも慣れてくるのだが初めて来る親の場合はこの時間をどう過ごしていいのかがよくわからないので手持ち無沙汰で立っていたりする。「水まいてるだけなんですけど子どもらがよろこんでくれるから楽しいですよ」と水が勢いよく出るホースを渡す。母親は私に渡されたホースを持ちプールサイドに水をまく。するとさっきまで私のところにむらがっていた子どもたちが新しくホースを持った母親の方に駆けて行く。ここでは何もかもが日の光に輝いているのになぜこんなにもせつないのか。他の親にしたって自分みたいにこのように神経質に言語化していないだけでそれぞれに「せつない」を抱いているのだと思う。

さまざまなことを考えながらプールサイドに立っていたら時間はすぐに終わり、学校を出て家までの帰り道には、ぽつん、ぽつんといくつかの家に朝顔の青いプラスチック鉢が置かれてあった。青い鉢が家の前に置かれているのは1年生が家にいる証である。1年生は授業で朝顔を育てていて夏休み前になると親が「めんどくさ……」と思いながら鉢を持ち帰ることになる。枠をはみだして蔓が伸びまくっているもじゃもじゃのやつから元気なく枯れてしまっているものまで、1つ1つ成長の仕方や花の咲き方が違う青い鉢が今の時期になると夏休み前の季語みたいに家の前に置かれるようになる。「家に朝顔の鉢を持ち帰ったのはわりと最近な気がするけど……」と思った。最近な気がするけど。

キムチごはん

ときどき長田(=神戸のよい所)に行った際に土産に買ってくるキムチをヒカリさんがおいしいおいしいと騒ぎだしたので「きみキムチ好きなんや」となってほな一度、キムチをメインのおかずにしてひたすら白米を食べるみたいなやつをやってやりたいと考えたのだが、いかんせんタイミングが難しい。朝はさすがにこれから学校に行くのでキムチ自体、出すのがなんだか厳しいし、昼は給食でいないし、夜だと栄養バランス的なことを考えてしまって(キムチではない)メインのおかずを用意してしまうから、必然的にキムチはサブ(小皿)扱いとなる。

そうじゃないんだよな。
たとえば焼肉屋でキムチをたのんだら、どうあがいたって肉がメインじゃないですか。
そうじゃない。
やりたいのはキムチと白米しかない状況下で、キムチ(のみ)によって白米を苦しくなるまで食べるというやつなのだ。
せっかくキムチがおいしいとヒカリさんが言うのならキムチを完全主役として食卓に登場させたいわけですな。キン肉マンとテリーマンが並んでリングに立ってザ・マシンガンズみたいな感じです。そこで肉とか魚があったらあんたらなんぼ強いんかわからんけど完璧無量大数軍やから。いらんわけ。

キムチと白米だけ。
そういうのは大人だったらなんとでもなるんだけどな。酒を飲んだあとのヤケ食いとか。しかし、キムチがおいしいと言っている子供を前にした時のキムチの使い所って難しい。子供に出す食事の場合はさっきも言ったようにどうしてもケチなことを考えてしまうからである。栄養バランスというウスノロがいなければ……て佐野元春も歌ってるように。でもな、このまえの土曜日の昼、冷蔵庫にタイミングよくキムチがあって「今だ!」となりついに実行した。

ご飯を炊き、どんぶり鉢にあつあつの白米を大盛りに入れて、キムチを山盛りに皿に乗せる。白米の上に最初からのっけてもよかったけれどそれは好き好きですから。熱いごはんの上に乗せるとキムチがぬるくなる、やめい、という人だっているだろう。ヒカリさんがどういうタイプの人間なのかはまだわからないから別皿にした。あとはごはんの温度。ちなみにカレーライスを食べる時のごはんの温度にかんして「ぬるい方がいい」「冷やごはんがいい」みたいな人は一定数いるだろう。私もそのひとりなのである。

だから個人的な好みだけで言うならキムチごはんにおけるごはんに関しては炊きたてにこだわる気持ちはまったくなくて、冷やごはんでもいいのだが、むしろ冷やごはんの方が互いの味がはっきりするからなおさらもりもりいけたりするのだが、まあそれはどうでもいい話っていうか、ここで言う冷やごはんの冷やっていうのは日本酒の「冷や」と同じで常温って意味です。

ただ、なんでこの時のキムチごはんの白米に炊きたてを使ったかっていうと、それは単に冷凍庫のチンめしが在庫切れしてたので在庫補充も兼ねてごはんを新たに炊く必要があったってわけ。だから「あつあつの白米を大盛りに入れて」て書いたけどさ、それを読んだからといって私のことを「キムチごはんにおけるごはんについて、"あつあつ(熱々)"であることを強調する奴」だとは思わないでほしい。それは誤解だから。

並んでキムチごはんを食べながら、こういうのがぜいたくなんやな、と私は言った。
実際ぜいたくである。
やっぱり世の真理としてこういうシンプルなやつが一番みたいなのはあるわけじゃないですか。焼肉屋でいろんな肉とかが派手に並ぶ中でちょこんと置かれている限りキムチはキムチとして咲いてない気がするよね。1954年の『花の白虎隊』に勝新太郎が出てるけど全然輝いてないのと同じ理屈です。キムチも勝新もワンオブゼムで力を出すタイプじゃないから。大昔小学校の授業で野球をすることになってバッターボックスに立った私に早野君(リトルリーグ所属)が「オマエそんなグリップ開いてて打てるわけないやろ」と私のバッティングフォームを嘲るように言った。あの時の私と焼肉屋のテーブルに置かれたキムチの小皿は同じ気持ちだと思う。「ワンオブゼムで力を出すタイプじゃないから」おれたち、そういう感じやん?

食卓の上にあるのは白米とキムチだけ。
その時のキムチってキムチを越えて超キムチでしょう。

「こういうのがぜいたくなんやな」と言った私にヒカリさんは「ウム」「ウム」と言った。その時テーブルの上に置いたスマホからはなつかしいギターのアルペジオが流れていた。さっきご飯を炊いていた時に友部正人が最近出した『長い旅』というアルバムを聴いていてそれがそのまま流れていたのだ。

私たちがキムチごはんを食べている時に流れてきたのは友部正人がずいぶん前に作った『水門』という歌ののんびりしたギターのイントロである。このアルバムはライブを収録したやつで、場所は吉祥寺のスターパインズカフェ。友部正人のホームグラウンドと言っていいのかわからないが昔、リクエスト大会みたいなライブに何度か行ったようなぼんやりした記憶がある。ヨドバシの裏くらいにあって、私は吉祥寺のヨドバシカメラが第二の家だったからいつもだいたいヨドバシの2階にいた。当時はヨドバシの裏に適当に自転車を置けた。今はたぶん置けなくなっている。行きたい音楽のライブとか行きたい写真展とか、そういうのが当たり前になんぼでもあるのが東京で、それがありがたいことだとも思わず毎日のようにスターパインズカフェの前を自転車で通っていたけれど、神戸に来たら山と海しかなくなった。ときどきキムチがある。

キムチごはんを並んで食べながら『水門』を聴いているこの感じがなんか不思議だ。
はじめて聴いたのがもう30年以上前か。自分はまだ友部正人の音楽を追い続けているのか。ひつこいな、と思うし、友部正人の青空ライブがあった日に居合わせて、ずっと形に残るものよりもいつか消えてしまう場所にサインをもらおうと思って腕をつきだして腕にサインを書いてもらったのも吉祥寺だったことを思い出した。

最新アルバムにも収録された『水門』、8分て。8分か。長いな。でもそれが良い。土曜の昼にのんびり食べるキムチごはんと『水門』がぴったり合うのを知ったのは思わぬ収穫だ。若干汗ばむ感じの5月の昼にヒカリさんと並んでキムチごはんを食べ、静かな空間になつかしくて新しい『水門』が流れていることがとても不思議だった。

もちろんヒカリさんはこの歌に何の興味もないわけで、私がいま食べながら意識が過去に向かっている意味も知らないままだ。思い出すことが少ないのが子供の良いところで、何かが起こるたびにたくさんの何かを思い出してしまうのが大人の悪いところだ。といってもいまさら思い出すことの少ない子供時代には戻れないから、結局スマホから流れてきたメロディひとつでギターのアルペジオを練習していた夏の日とかを思い出してしまっている。

日当たりの悪い狭い部屋で私たちは並んでキムチごはんを食べている。建物だけは朝から日にぎらぎら照らされているのか夏でもないのに少し蒸し暑い。音楽が流れている。説明できないところとか、伝わらない時間とかがある。キムチごはんと水門、そういうのがよいのだ、と感じる。私だけがそう感じている。ヒカリさんは別の何かを感じている。大人になると人と人はわかりあえなくていいのだとわかる。5月の晴れた空はどこまでも青く深い。でかめのキムチを箸ではさみ「このでっかいキムチをなあ」と言って白米の上にのせる。「ごはんにこうやって巻くんや!」そう言って包んだかたまりを、大口をあけてほうり込んだ。

プラネットマンのでっかいキン消し

いま『キン肉マン』をのんびりしたペースで読んでるんだけど、46巻を開くと冒頭のキャラクター紹介に悪魔六騎士の「プラネットマン」がいたんだよな。それを見たときには悪魔六騎士という名前も忘れてて。キン肉マンって少年ジャンプの連載は37巻(だっけ)で一旦終了してて、それが十年ぶりとか二十年ぶりとかで再開されて、38巻(だっけ)から続きが描かれている。私は1巻から読み返そうと思ってたんだけどそれだといつまでも進まないから、今回は38巻から読んでたわけ。だからプラネットマンなんて、ずっと忘れてた……。で、今日、昨日かな、46巻を開いたらプラネットマンが出てきて、その時にすーっと昔の記憶がよみがえったわけ。おれ、小学生の時にプラネットマンのでっかいキン消し持ってたな……と。普通サイズのガチャガチャで出てくるやつじゃなくてもっとでっかい、オロナミンCの瓶くらいあるやつ。いろんな超人があって選べるのならプラネットマンは選ばなかったと思うから、あれもまたガチャガチャ(?)みたいなので結果として望まないプラネットマンが出てきたんだろう、と思う。と思う、と書いたけど何もおぼえていない。そう「プラネットマンのでっかいキン消し持ってたな」ということ以外はそれに付随する記憶がいっさいないのである。だからあれよな、それにまつわる日記も書けない、書いてるけど。で、46巻は超人墓場の入口で悪魔将軍とミラージュマンが戦う場面から始まるんだけどさ、ミラージュマンが悪魔将軍に「現し世は夢 鏡の世界こそ誠 悪魔将軍よ 弑し奉るーっ!」て言うわけ。みんな「弑」て言葉は知ってんのかな。自分はこの歳になるまで知らんかった……。弑【臣下が主君を殺し、子が親を殺すなど、目下の者が目上の者を殺す。】だってさ(日本国語大辞典)。この「弑」て言葉をキン肉マンより先に、つい最近目にしていたのだ。それは連休中に読んだ深町秋生『血は争えない』167ページに出てくる。「土居は少年院を出てからは地元の仲間たちとつるんで、『新宿弑逆』を結成。練馬や杉並のチームとの抗争に明け暮れ、その後も警察の厄介になっていた。」そこではじめて「弑」て言葉を知ったすわ。今年になっていきなり、初めて知る言葉がたてつづけに2回も出てきて、月末とかに子供に殺されるんかもしれんね。

「猫にエサをあげないでください」の法則

ひさしぶりにはてなブックマークでいろいろ怒られてる……うわ、なんかひさしぶり、帰ってきたって感じ、とか思ったけどこの感じって……Xとおんなじか。
こういうのって「猫にエサをあげないでください」の法則だと思うんです。

大部分の人にとっては野良猫の存在なんてどうでもいい。
どうでもいいからこそ声をあげることもない。
でも様々な事情から「絶対の絶対に許せない」ていう人はいて、その人は必ず声をあげる。強く声をあげる。「どっちでもいいっす」みたいな人は声をあげないし貼り紙もしないから、結果的には少数の人の声だけが町に貼られ、役所にも響いて、やがて町全体のルールとか方針、雰囲気が「猫にエサをあげないでください」になっていくってやつ。

書いてて思ったけどべつに「猫にエサをやらないでください」とは関係ないか。関係なくもないかなあ。ただほとんどの人は私の文章を読んでも「ハハハ」とかその程度なわけですけど、ごく一部に、なにかこう、よくわからない理由(でも、その人にとってはその人なりの何かにもとづいたちゃんとした理由)で怒っちゃう人ってのがいて、そういう人は必ず声をあげるから、これはカラスと同じで1人がカアって言うと「あ、向こうで鳴いてるな」と同じ種族がどんどん集まってくる、てなるから一般的な書き手にとっちゃ大変な世の中よな。

……なんてことは今にはじまった話じゃなく、はてなブックマーク全盛の太古の時代から言われていたことで「こういうインターネットでいいのか」みたいな先人たちによって繰り返された議論の結果世界が平和になったのかといえば北斗の拳ぽさはさらに加速した。X時代は声をあげる人をおちょくって(養分にして)さらに肥え太る書き手とかインプレッション稼ぎのゾンビの御仁たちも加わってきたしなんかあれですな、ネットイナゴがどうこういってた太古の時代はぜんぜん平和だったのかもしれない。

入口でコーヒー(略)のワシャワシャした紙

入口でコーヒーを配っていることで有名な、外国の食品やら調味料なんかを売っている店、に行った。目当ての商品を選んでレジに並んでいたのだが、自分の前で会計していた人が購入商品が数点のわりにやたら長くて、何かのカードを出そうとする、やっぱりそれがない、じゃあスマホの何かで払おうとする、操作がよくわからない、みたいな感じで、最初っから現金で買い物していれば数十秒で終わるものが、店も店、客も客、というもたつきでまったく進まなかった。イオンによくいる「だいぶ遅い人」の10倍くらいの破壊力を持った遅さだった。

……ただ、それは別によかった。こちらは急いでなかったし、平和な心だったからである。平和な心の時は「レジが進まないことに何かマイナス感情を持ったって得られるものは何もない」みたいに仙人ぽく思えるから「のんびりしとるのう」くらいのおだやかな気持ちで待っていた。
ようやく私の番が来る。
私が手にしていた商品は瓶モノが3つである。

ここで、入口でコーヒー(略)をよく利用する人ならわかるだろう。
入口でコーヒー(略)では、瓶モノを買うとひとつひとつ例の「ワシャワシャした伸び縮みする紙」で包んでくれるのである。私はアレは資源的にけっこう無駄、店員の手間的に相当無駄だと思っているので基本的には断るようにしている。ところが……

前回入口でコーヒー(略)を利用した時、断るタイミングを逃して瓶モノをワシャワシャした伸び縮する紙で包まれてしまったのだ。ああ、無駄な紙を使わせてしまった、と思って家でそれを剥がし、なんとなくテーブルの上に置いておいた。単に捨て忘れていただけであったが、そのワシャワシャした伸び縮する紙をヒカリさんがいたく気に入った様子であった。びよんびよん伸ばしたりしながら、どこかに行く時にいつも手に持っていたり顔にあててワシャワシャのにおいをかいだりしている。
というような出来事があったことを今日、レジに商品を出した時に思い出した。

思い出すまではいつものように、例のワシャワシャについては資源的にも店員の手間的にも無駄であるから「それ、いりません」と断ろうと思っていたのだが、「袋はお持ちですか?」「はい、持ってます」のやり取りの後で店員がいつものように(例のワシャワシャの入った)引き出しを開けた瞬間にヒカリさんのことを思い出した私は「どうしよ、どうしよ」と考えながらも店員を(「それ、いりません」と)制止せず、1つ目の瓶を包みはじめたタイミングで「すいません、(瓶を)包まなくてもいいのでその紙だけ1枚くれませんか」と言った。今から考えたら、そう言った瞬間の店員の「ピクッ」となった感じを不穏なサインとして気づくべきであった。

しかしその時は自分がそれほどたいした要求をしているとも思っていなかったので、よりによって「ピクッ」となった店員の挙動をこちら側にフレンドリーなものであるかのように逆方向に解釈してしまい、「ピクッ」の間(ま)にかぶせるように、「その紙、子供にあげたらよろこぶんですよ」などと「いかにも関西地方にいそうな、店員になれなれしくしゃべるおっさん」風にしゃべってしまった。

それで会計という段になったのだが、私はまったく空気を読めていなかった。
スマホ決済を告げて機械が反応するのを待つあいだに、世間話のような気楽さでもって店員に「すいません、この紙もう一枚くれませんか?」と言ったのである。

店員は、もう我慢の限界だ、とあきれるように「これは本来商品をお包みした上で渡すようになっているものです。今後はご理解ください」と無表情に言い、引き出しから紙を一枚取り出してレジ台に置いた。私は私で今さら「そ、そんなもん、いらんわい!」とも言えず、(前の客とのやりとりによって生じた行列もあるしでこちらはこちらなりにいろいろ気をつかいもしたのだが、これだったら始めから何も言わずに瓶を3つとも店員に包んでもらっておけばよかった……)というような()内の言葉よりももう少し品のない感じの言葉を心に浮かべながら「すいません」とだけ発声し、レジ台に置かれた商品とワシャワシャした紙2枚をせわしなく手に取った。

私も武士である。このようなやり取りの後ではもうこのワシャワシャに家の敷居をまたがせるわけにはいかない。だからせっかくいただいたワシャワシャであるがその場でビリビリに破いてワシャワシャと丸めて店員の口に詰め……みたいな想像をしながら実のところは「荷物といっしょにリュックに入れたらワシャワシャが折れ曲がってしまうから大切に持っておこう」と大事に手に持って学校から帰ってきたヒカリさんに「この前の魔法の紙、またゲットしたよ!」とかなりほこらしげに渡した。

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近所のM氏から「最近カラスが増えている」という話を聞いていたのだが、その時は「カラスなんて前からおるがな」みたいな適当な返事をしていた。ひさしぶりに早朝に外に出ると不穏なまでに空をカラスが舞っている。なんだこれは、と驚いているとM氏に会い「カラスすごいでしょ」と言われ「すごいな。こんなんなってるとは思わんかった」と答えた。「ほら、あっちも、こっちも」とM氏が指さす先にはカラスがいる。公園に出ると小学生保護者の某と某の会話が耳に入ってくる。「さいきんカラス増えてません?」「増えた増えた」そのあいだも上空をカラスが舞い、あちらからもこちらからもカラスの鳴き声がこだましている。上空だけでなくマンションの屋上、電線、一軒家の屋根、遠くの路上、どこを見てもカラスが二羽三羽、どこを見てもカラスから見られている感覚がある。

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連休最終日。妻と子と朝イチのスーパー銭湯に行くと「連休中は混むから朝イチを狙うしかない」みたいな人たちがたくさんいたが、しょせんは朝イチであるから比較的すいている。のんびりぬるい湯につかり考えごとをしていた。風呂上がり、妻と子はカレーを食べに行ったのだが私はべつにどっちでもいいやという気分だったので家に帰り納豆卵かけご飯を食べる。朝に卵2個納豆1パックの納豆卵かけご飯を食べていたので、昼は卵1個納豆2パックの納豆卵かけご飯にした。午前中にスーパー銭湯に行って長湯していると上がった後もその日いちにちだるい。そのだるさが心地よくもある。