はてなダイアリー平民新聞

創業2002年か2003年、平民金子の元祖はてなダイアリー日記です。

歳月の日記

ひさしぶりにパソコンの前に座ってなんだかとまどっている。自分は今までどんな顔して日記書いてたんだっけ…としばらく思い出していた。たとえば、ひとりの人間が死んだら何人の人間が悲しむのか、そういったことを正確にはじき出すコンピュータが世の中にあったとして、すべての平均で、10という数字が出たとする。すると六千人以上の人間が亡くなった災害では六万人以上の人間が悲しみ、ある者は涙を流し、ある者は涙も流せない。実際のところ、10なんていう数字ではないだろうから、毎年この時期には何十万人、或いは何百万人という人たちが今も言葉にならない胸の痛みを感じているんだろう。こういった書き方は不謹慎だとわかっているんだけどあえて書いたのは、なんやかやでどっか機械的な書き方でもしないと十数年前に起こった阪神淡路での大地震には自分は容易には触れ得ないからで、日付がかわった1月17日の深夜、ポケットに手を入れてコンビニにむかう途中、ふと外の気温が「すげえ寒いな…」と当り前のように思って、自分はいまダウンジャケットにニット帽、いってみれば完全防備かつ自分の意思で外に出てるわけだけど、あの頃被災した人間、生きた人も死んだ人も、このクソ寒い季節にいきなり外気にさらされたんだよな、なんてぼんやりと考えた。この「ぼんやり」ていうところにはたぶん十数年という歳月が影響していて、たとえば1996年、1997年、1998年とかだったらもっとザラついて感じられたある種の感情が、歳月とともにおだやかなものに変化していったのだ、とも言えるし、単に自分の感覚が麻痺してしまっただけなのだ、とも言える。年を重ねるっていうのはそういうことなのかもしれない、と考えたりもするけれど、歳月の積み重ね、そんな積み重ねによってゆっくりとおだやかに、そして確実にうしなわれていく感情のザラつき、というものに対し、自分はなかなかあっさりと手をふれない、わりきれないところもあって、俺はこれからもずっと、お前を観察してやるから、もっと痛めよ、もっと痛めよ、そんなことをぶつぶつ心の中でつぶやきながら、コンビニからの帰り道を歩いていると、喧嘩しているのか交尾しているのか、猫たちが叫ぶように鳴いたのだ。