またそこには、戦後の沖縄における「日の丸」の微妙な位置の問題があった。敗戦 いらい沖縄全土ではアメリカ以外の国旗掲揚が禁止されており、一九五二年四月の 講和条約の発効とともに部分的には許可されたが、それでも公共機関や集会などで 掲げることは禁止されていた。もちろんこれは、勃興しつつあった復帰運動への弾 圧行為であった。このため皮肉なことに、「日の丸」は復帰運動と反米のシンボル として沖縄に定着してゆくことになったのである。実際、五十年代から六十年代前 半の反基地運動や復帰運動の集会には、必ずといってよいほど「日の丸」が掲げら れていたことが当時の写真からうかがえる。 〜中略〜 米軍は復帰運動をすべて共産主義者による煽動とみなしていたから、そうした視線 のつくる空間のなかで米軍に対抗していた沖縄側のなかに、「日の丸」と赤旗を類 似のものとみなす習慣が生まれたとしても不思議はない。しかし問題は、「日本 人」という言葉とおなじく、「日の丸」もまた本土側では別の意味をもっていたの であり、国旗という媒体をとおして、米軍への抵抗とは異なる意味が教職員会にも 流入してくることは避けがたかった。 (<日本人>の境界/小熊英二)