まあ、高田渡に対しては、出来うる限りの、痛い言葉を残しておきたかった。それは他の誰でもないおれ自身のために。沈黙せざるをえない喪失感の真直中にいる人たちがいる一方で、おれはいくらでも饒舌になれた。それは、悲しみから言葉が次々に溢れだしてくるといった意味での饒舌さではない。無意識に、ではなく、あくまでも意識的におれは、無駄であるなと思いながらも尚たくさんの言葉を書きつらね書きつらねしてゆくとゆう、方法を選択した。ひとりの人間であるところの高田渡が死のうが生きようが、おれは彼の家族でもなければ友人でもないので、だから、しょせん他人である高田渡の生き死には、おれの日々にたいした変化をもたらさない。それはある意味、わかりきっているだけに、とてもかなしいことなのだけれど実際問題、そうなのだからな。そして、高田渡とおれとのこの遠い距離、交錯しない二線とゆうものを強く意識しながら、その二線のあいだに架けるたよりない橋としての「高田渡はおれの中にいる」なる言葉を、発してみる。でも強い諦念とともに、橋は流されていくのだ。おまえはなにを言いたいのだ、比喩をやめること、おまえはおまえの立ち位置を見極めなければ、そうだろ。