天気アプリによると今日は一日曇り空になってはいたが降雨予報はなく、9月とはいえ夏の名残でまだまだ強い日差しを考えれば曇天はむしろ恵まれているといえる。登山道はまだ薄暗いけれど注意すれば十分に歩ける程度の明るさはあって、これから刻一刻と朝になるわけだからヘッドランプはつけなくていいだろう。都市部ではもう聞こえなくなったセミの声が周囲を木々に囲まれた道にはまだ響いていて、それに鳥の声と鈴虫の鳴き声と落ち葉を踏みしめる自分の足音だけが今ここにある音の全部だと思って歩いているうちにも少しずつ周囲も明るくなっていく。ニール・ヤングの『孤独の旅路』という曲名が浮かぶ。一段、一段のぼるごとに、こど、くの、たび、じ、こど、くの、たび、じ、とリズムをとり、心の中で声にしながら進んで行く。
孤独の旅路ってなんかアルバムタイトルっぽいけどアルバムは『ハーヴェスト』だったな、『ハーヴェスト』と『アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ』はどっちを先に聴いたのか忘れたけどニール・ヤングの二大こんな音楽があったのかアルバムだ。ボブ・ディランとニール・ヤングがいるアメリカ人がうらやましかった、十代の最後の年に聴いたんじゃないか、て書きながら思ったけど、音楽とは関係ないけど、私は酒の「のむ」を「呑む」て書く奴は悪魔だと思ってきた、呑むじゃなくて飲むって書けよと、けれど自分だっていま「きく」を「聴く」て書いたじゃないか。それだって他の人からしたら悪魔だと思われるのかもしれない。「飲む」を「呑む」て書く奴の漢字の選別から見えてくる自意識がほんまうっとおしい、と言いながら自分は音楽を「聴く」と書くときに「聞くじゃなくて聴く」みたいな選別感があるよな、とは以前から思ってた、きくを聴くと書く時に自分には何かがあるなと、なんか「こっちの漢字を選んで書いている」みたいな時に己の中の嫌なものを見せられるようで嫌になる、そういうのに「もうめんどくさいわ」となり、みんな糸井重里っぽく漢字をひらく感じになっていくのかもしれん。ひらくのはひらくのでクセが出るから使い方が難しいとは思うけど「きょうだい」とかはひらいて書くほうが好きだな。
それにしてもまだ5分も歩いていないのに息が激しく切れている。これはなぜか。プレッシャー?「やったるで」みたいな気負いからだろうか。なんせ歩き始めにしていきなりであるが体がめっちゃ重い。塩屋の登山道は何度ものぼっている慣れた道なのに、この体の重さはなに、てくらいの。でもこれまではほとんど手ぶらの状態で登ってたから、なるほど、今日のように荷物を背負って歩くのと手ぶらで登るのとでは同じ登山でも別の競技みたいな感覚なのかと学んだ。自分はずっとheart of goldを探してきた、そうやっているうちに、and I’m getting old……(ずいぶん年をとってきたわいな)て、これは『孤独の旅路』原題ハート・オブ・ゴールドでくりかえされる印象的な部分だ。ハート・オブ・ゴールドを孤独の旅路てなんか、あまりにも直球な、まあそう言うならそうなんだろうけどそう言う?みたいな訳ですな。
そういえば神戸市がYouTubeで公開している1975年の第一回六甲全山縦走大会の映像(映像というか写真をつなげたもの)をきのう見た。モノクロの景色の中にいる健脚そうな若者たち、あれも今では例外なく死んでいるかよぼよぼなのであろう、そんなことを思いながら。どんな生き方をしようが年をとる、生まれたからには死んでいく、みんながみんな、and I’m getting oldなのである。先ほど玄関で尻もちをついた時、ふいに「初老をつきつけられる」という言葉が浮かんだ。生命が例外なくたどっていく死への入り口、それが初老である。死の玄関口、て、まだ早いか、年寄りに笑われるわ。三十代の奴が自分のことをおっさんって言ってたらおもろいもんな。私も三十代の時に自分のことをおっさんって言ってたけど。「老」もそうで、今なんか調子こいて使いたくなるけど七十代とか八十代の人からしたらおもろいんやろうな。でもニール・ヤングってand I’m getting oldのハート・オブ・ゴールドを作ったのがまだ二十代やろ、老成しすぎだろー。尊敬よなあ。
考えてみれば、私は2年前と比べたら体重を25キロも落としているのである。それまでに背負っていたペットボトル50本ぶんの肉塊に比べたら、今の荷物ってせいぜい、なんぼお茶を2リットル持っているといったって合計5キロくらいしかないはずだ。それで尻もちつくってのもたいがいよな。でもあれか。100キロの人間が持つ5キロは体重の20分の1だけど50キロの人間が持つ5キロは体重の10分の1みたいなあれもあるのかな。どうでもいい。なぜ私は縦走をするのか。第一回六甲全山縦走大会の、50年前のその時の瞬間を写真におさめられた彼らの、モノクロームの映像が脳裏をよぎる。今さら何をやったところで誰もがこの先老いて死んで行くのに、なぜ私は縦走をしているのか、なぜ彼らは縦走をしたのか、何をやったところで老いて死んでいくだけなのに、と思うとつまらないこだわりとか、夢とか希望でさえもどうでもよくなるような気がしてくる、どうでもいい、何をやったってやらなくたっていっしょである、だからこそ彼らは縦走をしたのだろうか、いつかあの世で聞いてみたいものである、そうそう、いつかあの世でといえば尾崎紅葉の『多情多恨』を読んで私は重要なことに気づいたのだ、でもそれは今度にして、今は体が重い、足がだるい、息が上がる、いつもはもっとラクなのに、こど、くの、たび、じ、こど、くの、たび、じ、と念仏のように唱えながら私は一歩、一歩、(ところどころで息をつきながら)歩いた。