そういう場は

 昨日は雨が降っていた事もあって、MTに肉を買いに行った以外はまったく外に出なかった。何をしただろう。子供にどうぶつの森の操作を教えたとかそれくらい。共同通信が「内閣支持率は45パーセントに減少」と報じている。自分がいまの政権に対してもっともあかんなと思うのは弱者や少数者、貧乏人、社会のノイズに対する差別的な眼差し、隣国に対する侮蔑的な眼差し、そういうのが許されるんやなという甘えた空気を醸成している所なのだけれど、それはもう致命的に、1ミリも認める事ができないあかん部分なんだけれど(こんな基本的な事、書いてて恥ずかしい)、でもどれだけ不正が明るみになり、人が死に、家族が泣き、新型コロナウイルスでめちゃくちゃになっても、この段階でこの数字なのだから、多くの人間(彼らによって首を絞められる側の人間でさえも)がなんとなく支持している土壌があるのだから、現実的な認識として、もうどうにもならないだろう、これは動かない、と思う。仮にいま選挙になっても自民党は圧勝するのではないか。すごい時代だと他人事のように感心し、達観する。その心は持っておきたい。これはあきらめるのとはちょっと違うんだ。私は街頭抗議等にこれまでも顔を出して来たしこれからも参加する。そして今後も人前に出るたびにマイクの前で律儀に(名前を書きたくも発したくもないが)ASを批判する。ただそれとは別の、もう一本の頭の回路として「これはどうにもならないだろう」という達観を持っておかないと心が不健康になる。自分の持つ「どうにもならなさ」を理論的に突き詰めると、現状を打開するためには(打開はされないだろうが、部分的であれ風穴をあけるためには)直接行動、つまりは●●の可能性を探る他なく、私がそれを実行する可能性はゼロ。そして●●を期待するのもダサい心性なので避けたい。なんかこのあたりの、芯の部分でのどうにもならなさを、せめて共有出来る人間と静かにしゃべりたいとたまに思う。いたずらに現状を肯定したり、冷笑したり、ややこしい話は苦手だよと何事も見えない、存在しないのだというようにただ笑っていたり、そういう場は、十字路。細雪の11章、読んでいて二十年ぶりくらいに記憶がよみがえったが、最後はこう締められる。

 おもては雨が細かになって、春雨のようなしとしとした物静かな降り方をしていた。雪子は先刻の白葡萄酒が今になって循って来たらしくて、両頬にぽうッと火照りを感じながら、もう阪神国道を走っている車の窓から、微醺を帯びたチラチラする眼で、濡れた舗装道路に映る無数のヘッドライトの交錯をうっとりと見ていた。

 この場面の酔いからの視線のうつろいが二十代のわたしは素晴らしいと思ってノートに書き写した。それを、思い出したのだ。今だったらスマホのメモに書いたりするんだけど昔はそういうのがなかったから本の良い場面は紙に写していた。紙とペンを持って他人の文章を書き写すのはとてもよい。得しかない。流れた時間ごといつまでも覚えている。Kindleのハイライト機能はとても便利だけど、あっさりしすぎて後の記憶に残るものではないだろう。経験上、身体的な負荷がかからないとあかんのだ。フリック入力でスマホに書き写すのはどうか。スマホ筆写もわりと記憶に残るかもしれない。いいかも。わからんけど。いま同じ章を読み返すと会食の場でのこんな文章が谷崎大先生……という感じがする。以下引用「雪子自身も、内々瀬越の飲みっ振りを見て意を強くもし、自分ももっと朗らかになりたいという気もあって、目立たぬように折々口をつけていたが、雨に濡れた足袋の端がいまだにしっとりと湿っているのが気持ちが悪く、酔が頭の方へばかり上って、うまい工合に陶然となって来ないのであった。」(p77)前の10章の冒頭、さあ出かけようという時にふいに降り始めた雨が、この場面の足袋が濡れている描写につながる。そして最初に引用した、濡れた舗装道路に映る無数のヘッドライトの場面につながる。まったく眠くならないので車窓から眺める風景、つながりで幸田文「勲章」を読んでいたらさらに目が覚めた。