弁当はリバーサイド

 後から考えれば、その事に疑問を持つのは当たり前ではないかという気がするが、疑問を持つ、という根本の発想自体がなかったため、長年なんの疑問も持たずにそれを受け入れて生きてきた。しかしある時、それに対して誰かが(基本的な疑問を)口にしているのを聞いた時に「たしかにそうやがな」とハッとなる。そんな常識というか慣習というか事象があると思う。昨日に続いてふたつ目は、数年前にとみさわ昭仁さんがツイッターに書いていた「コンビニとかでくれる割り箸って、指に刺さるかもしれない危険を冒してでも爪楊枝を入れておかなければならないものなんだろうか。おれはなくてもいいよ。」という言葉だ*1。これはわたしにとってキングオブたしかにそうだ2015であった。しかし自分は、これまで弁当なんかを買った時に割り箸といっしょに付いている爪楊枝を当たり前のように最初に邪魔なので捨てていて、それが「いらないんじゃない?」と思う発想がなかった。「当たり前に存在する邪魔」として自動的に受け入れていたのだ。「おれはなくてもいいよ。」と言ってもいいのか…!とハッとなった。このことを思い出したのは、一ヶ月に一回くらいわたしは牛丼屋の弁当で缶チューハイを飲みたくなって、持ち帰りでたのむのはだいたい吉野家で、直近で買ったのがつい最近。箸袋をあける時にふと「あれ、吉野家の箸って爪楊枝ついてへんねや。すごいやん」と思ったからだった。そう、吉野家の箸袋には爪楊枝が入っていない。この時に、とみさわ昭仁さんの五年前の言葉を思い出した。持ち帰り牛丼をアテに酒を飲むのは、私が心から勧めたい、数少ない行為のうちのひとつだ。朝の6時頃になんかいろいろと片付いたので東畑原市場のあらたやさんに「畑原市場弁当はまだ予約できますか?」と問い合わせたら、7時頃に「最後の一個がありますよ」と教えてもらってすぐに予約した。昼すぎに東畑原市場へ。お弁当を受け取って畑原市場に行くと新聞やテレビでも出たからか人がたくさんいて、テレビカメラも入っている。にぎやかや、にぎやかやと思いながら晃龍で野菜炒め、麻婆豆腐、カキフライ。魚辰で鯛の刺身を買って、それらは保冷バッグに入れて弁当を食べに都賀川へ。弁当は9個の部屋に別れており、カバー紙にはひとつひとつの説明(店名、商品名)が書かれている。置かれたすべての惣菜が、ここに配置される理由があるのだ、という感じで、あらたやさんは「作るのにものすごく緊張して、寝られませんでした」と言っていたが、重量以上の重さを感じるものだった。それでもまあ弁当やん、と気軽に食べるのが正しい姿勢なのだが、私自身、まず2月15日のオープニングイベントに呼んでもらったというあれなんかがあって、いろいろと考える。やはりこれは重たいものだ。これちょっと、食べるのに緊張するぞと思って、最初に座った場所は行楽の人がけっこういたから上流に向かって歩いて、ちょっとしたミニ中洲みたいになっていて誰もいない所に場所を変えて、ゆっくりと、時間をかけて食べた。畑原市場大感謝会の長いイベントはメディアにとりあげられたりして次第に大きな規模になっている。わたしはそのイベントに住人でもないのに関わって、何かをしゃべったりしたのだ、という事を勝手に背負っている。背負って何をするのかというと、やることはひとつだけで、畑原市場に筋を通さなあかんから、店で買い物をするだけだ。というような事は帰ってから(いま、これを書きながら)考えたことで、川の音を聞きながら、静かにゆっくりと弁当を食べた。