エレガント

 後から考えれば、その事に疑問を持つのは当たり前ではないかという気がするが、疑問を持つ、という根本の発想自体がなかったため、長年なんの疑問も持たずにそれを受け入れて生きてきた。しかしある時、それに対して誰かが(基本的な疑問を)口にしているのを聞いた時に「たしかにそうやがな」とハッとなる。そんな常識というか慣習というか事象があると思う。ひとつは、十代の頃にAちゃんが言っていた言葉でハッとなったやつだ。Aちゃんはわたしにこう言った。
「納豆って(添付の)たれを全部入れたら味が濃すぎるよね」
 わたしは、添付たれを残すとか半分だけ入れるとか、そんな発想自体なかったから、驚いた。「たれを全部入れたら」てきみは言うけど、「たれを全部入れない」という選択肢が人生にあったのか、と。そんな発想を持ったことがないのだ。それ以来、まあめんどくさいから基本は全部入れるんだけど、たしかにたれを7分目くらいにしとくとより豆の味がするというか、たれを全部入れたら味が濃くなりすぎる、という世界が理解できた。なんでこの話を思い出したかというと「辛辛魚」は仕上げに辛味パウダーみたいなやつをかけるんだけど、昔は「そういうもんだ」と思って全部入れてたけど、今季はパウダーは半分くらいにしている。個人的にはそれくらいの方がウマいと思ったからで、ああ、こういう添付の何かを全部じゃなくて調整して入れるみたいな世界を初めて知ったのはあの時やったな、と思い出したのだ。いや、でもこの話は「辛辛魚」の時にたまたま思い出したのではなくこれまでも時々思い出していた。納豆についている添付たれを自分の好みに調整して入れるエレガントな世界があったんやな、というのはわたしにとってはそれくらいインパクトがあったのだ。Aちゃんとこのやり取りをしたのは、たぶんわずか数秒の事で、なんら重要な会話とかじゃなくて、でも十代の時に交わしたその一瞬のやりとりをいまだ鮮明に覚えている。「納豆のタレを全部入れない世界、あったんや」これはもう、衝撃であった。午前中、なんとなくそんな気分になって、よし見るぞ、と子供に大声で宣言し映画「ドラえもん のび太の宝島」を見始めた。しかしやる気になっていたのに開始10分くらいで寝てしまう。星野源のエンディングの歌が流れているところで目が覚める。「あっこちゃんよく寝るなあ」と子供が感心したように言う。やらなあかんやつが1個あって、それがなかなか出来なかったのだが、今日ようやく出来た。ようやく出来た、と思って外に出て、Sさんとしゃべる。「ジョーカーと半世界見たけど、ジョーカーはいまいち。半世界の方がずっといいよ」とのこと。鵯越墓園の地図をもらった。子供がベビーカーに乗りたがったので、こんな時やからと思ってベビーカーにポータブルスピーカーを取り付けてスタン・ゲッツを流しながらぶらぶら散歩する。なんかの木の実をひろってわたしが鬼になり、鬼は外、福は内、と投げられる遊び。リサイクルショップに行き昨日買ったぬいぐるみの色違いを買い、帰り道にAさんに遭遇し、子供はパンを買ってもらっていた。夜、こんな時やからと思ってIZM、SH、TZ、いやそれともYEか……と散々迷っていたらお腹が痛くなってトイレをかりにR1に。結局GPで折り詰めを買う。折り詰めをカゴに入れ、家に帰ってひとりで飲むのが一番気楽やなと自転車をこいでいるとMに遭遇。