今日は朝から会場に着いたんだけど、なんとなく散歩でもするかという気分になって会場の周辺をうろうろと歩いた。一ヶ月展示をしていたが周辺を散歩するのは初めてだ。細い路地、坂道、階段、階段、階段。昼ころに扉を開けて、初めての人、二度目の人、三度目の人などが、知っている人や知らない人などが来られている。子供が合流してからはあまり挨拶も出来ず、走りまわるのをついていったり、ガラスや売り物にさわろうとするのを怒ったり(私は人前であってもアカンことはアカンと平気でキツく怒るのである)。夕方に来られた人は奈良から来てくれたらしい。他にも滋賀から来られた人もいた。塩屋に初めて降りたんですよ、という人が今日だけでなく、期間中けっこういた。へえ、他府県の人とかだったらわかるんだけれど、関西の人にとっても塩屋ってそういう感じなのか、と何度も思ったりした。私は「ごろごろ、神戸2」の連載を始めるか始めないかくらいのタイミングで森本アリ『旧グッゲンハイム邸物語』が出たのでそれを当然読んでいて、何度も塩屋の駅を降りて歩いていたため、なんだか親しい町のような気がしていたけれど。しかし初めての塩屋体験が私の写真展であるというのが、とてもおもしろいというか。遠方から塩屋の展示に来てくれて、ある日には灘中央筋商店街の展示にも来てくれて、駆け足で東山商店街や稲荷市場を訪ね、そのまま新幹線や飛行機に乗って急いで帰っていく。異人館とか南京町とか、普通せっかく来たんだからもうちょっと神戸っぽいとこ行くやろ、みたいな事を口では言いながら、内心ではまったくもって正しいコースだ、こういう場所こそが神戸なのだ、と胸を張って言いたいような気持ちもある。いろいろな人が訪ねてきてくれる。私は自分からは話しかけないし、話している時にも名前を聞いたりもしない。ネット経由で来てくれた人であってもツイッターのIDを聞いたりとか、そういう事もしない(自分から名乗ってくれるのは全然OKですよ)。それはまあ、なんというか。不必要に距離を詰めない。詮索をしない。相手を知ろうとしない。そういうのが長いことネット世界で生きていると、流儀としてあるような気がしている。会話をするのに、カードはそれほど必要ないんだ。本当は展示会の会場には作者はいない方がよい。でも今回の場合、何よりも私が平民金子展のファンなため、いられる限りいたいという欲望に抗えず、いさせてもらっている。なので会場にはいるんだけれど、可能な限り引っ込んでいる。このような展示はもう二度とない。初めての写真展というのは、生れてから死ぬまで、人生でたった一度きりだから。そのさなかにいられるのも明日で最後だ。雨模様。それがとても私の心に似合っている。夢であった。来てくれた人、本当にありがとう。