何年も前に、どういう話の流れだか忘れたが、主婦業はラクなのかどうか、というような話題になった。自分が「色んな意味で…大変に決まっとるがな」という意見を言うと、「いやいやいや、あんなにラクなものはない」とそれを真っ向から否定するのは、かつてはご自身が専業主婦で子供を育てたという経験を持つ(今は会社勤めの)女性である。僕はといえば男で、結婚や子育ての経験もなく、それからしばらくは彼女の「当事者としての話」を聞かされる事になった。どうやって子供に向き合ったか、料理、家事、時間の作り方。「会社勤めしてるわけじゃないんだから、いくらでもやり方次第で自由に出来る。あれを苦労なんて言ったらバチがあたるよ」と。自分は実際に専業主婦を経験してきたからわかるのだ、と。僕はといえば、「それはあなたの個人的な経験でしかなく、あなた個人の能力、環境、思考、人間関係において主婦業がラクだった、ワタシはそう考えるようにした、と個人的な解釈の話をしているだけであって、それをもって専業主婦全体がラクであると断じるのはあまりにも乱暴すぎないだろうか。そんなにラクならなぜ世の中の主婦は家事に人間関係に、子育てに、孤独に、追い詰められるのだろう?」などと、気の利いた反論が出来るわけもなく、ただ黙って話を聞いていた。「自分は当事者だったのだ」「自分には出来た」「自分はその修羅場を(苦労して)乗り越えてきた」という人に共通する押しの強さに何も言えなくなったのだ。環境や人間関係に恵まれていたり、または当人の血の滲むような努力であったり、なんにせよ「山(それが大きな物であるほどに)」を乗り越えて来た経験を持つ人は、その山道を何らかの理由(環境や人間関係。あるいは、本人が単に怠け者なだけかもしれない。なんにせよ、山の途中)で挫折した人、弱音を吐く人に対して、あまりにも厳しい。本来ならば、山というのは人の数だけあるはずなのだが、山を登り切った(と判断した)苦労人に限って、すべての山が同じに見えてしまい、くじけそうな他人の人生に口を出してしまう。主婦業という話題ひとつとってみても、AさんにとってのそれとBさんにとってのそれは完全に、もうあらゆる意味で完全に別物なのだが、自身のワークをこなしてきたAさんは、弱音を吐くBさんを断罪する「そんな山道でつまづくなんて、どういうこと?」。登ってる山がぜんぜん違うんだよ、と言っても通用しない。自分が「出来た」経験を持つ人は、「出来ない」人にきびしいのだ。「がんばっていないだけだろう?道を選んだのは自分だろう?甘えているだけだろう?」。そして「出来た人」が発するそれらの言葉はとても説得力があり、重く、強い。つまづく人は声が聞こえている間、ごめんなさい、ごめんなさい、と耳をふさぐしかないのだ。出来た人が出来ない人を追い詰めるという悲しい構図は、ありふれていて、人生のそこかしこにあふれている。