ツイッターで、家族の料理を作るのがめんどくさくて仕方がない、ああいやだ、というようなお母さんのつぶやきを読んで、そりゃそうだよなあ、と思った。僕がツイッターを好きなのは、こういうところだ。なぜ好きかというと、自分は他人に料理を作るという経験をそれなりにしているので、めんどくささ、うっとおしさ、という部分はなんとなく(あくまでも自分なりに、でしかないが)想像出来る。のだが、そういう所(しんどさの共感)ではない。子供の頃、当たり前のように食っていた親のメシ、あれを作っていた時のおかん、実は「めんどくさかっただろうな…」みたいな視点が(当時は当然考えもしなかったそんな視点が、それから数十年たってふいに)得られるから好きなのだ。自分は、それが例え他人のものであっても、母親の視点で毎日を眺めた事がなかった。ツイッターにはたくさんの、かつての自分もそのように見つめられていたかもしれない、生身の母親の視点があるのだ。親が作ってくれるメシに感謝する子供なんていない。鳥のヒナみたいに、当たり前の顔して口を開けていれば当たり前にメシが出てくる。そんなモンに感謝なんてするわけがない。だけど、あれ実は、作ってる母親(あるいは父親)、自分のことだけでも忙しいのに「めんどくせえなあこの野郎」と思いながら自分の時間を犠牲にして運んで来てくれていた物だったんだ。なんて当たり前の事が、わかる。だから、「オイラ、親に感謝…」とかそういう、犬も喰わねえようなしょーもない結論では断じてなく、「そりゃ母親だって家族全部捨てて一人で逃げたい時だってある(あった)だろう」みたいな感じで、世界を見る視点が重層的になるという話。自分の子供時代で言うと、「ただ口をあけてメシをもらっていた自分」というだけでなく「でもそのメシを運んでいた親にも色々な悩みや葛藤があったのだ」という視点も加わって、人生が豊かになる。だから僕は、母親にせよ父親にせよ、かわいいです!子供は天使!みたいな判で押したような書き込みよりも、なんで泣きやまねえんだよクソが!とか言う事聞けよボケ!とか、おめえらのメシなんて作りたくねえんだよ!俺は寝たい!とか、そういうつぶやきが好きだ。もっと言ってくれ!と思う。こういう事言うとインターネットでは(いや、インターネットだけでなく現実社会でも)怒られるばかりだと思うんだけど、お母さん、泣いてる子供の口にハンカチ詰め込んだりとか、首をしめたくなったりとか、そういう「魔」が入ってくる時って絶対あると思うんだよな。子供がかわいくない。家族を捨てたい。とか。その「魔」って、当たり前の感情だと思う。っていうような……事を言いたいんだけど、なかなかうまくは伝わらない。