メキシコの公衆便所には便座がない。ホテルには普通に便座があるし、ちょっといい所のレストラン(行った事ないけど)でもたぶんあると思うけど、市場とかにある公衆便所にはまずない。でもこれはメキシコに限った話ではなくヨーロッパでもアジアでも、外国では別に珍しくもない事例のようだ。こちらにいてあらためて思うのは、日本という国はよく言われる自動販売機だけでなくトイレ大国でもあるという事で、例えば町なかにいて「トイレを探せなかった」という理由からうんこをちびる事はまずない。コンビニにもあるしパチンコ屋にもあるしその気になればどこにだって駆け込めて無料で使える超清潔なトイレがある。これは(良い意味で言うんだけど)世界的に見れば異常な事なのだと思った。
この写真は遠距離バスターミナルの有料公衆便所(公衆便所はたいてい有料)だからかなり綺麗な感じです(だから写真をのせれてるんだけど…)。まあ汚れている所はそれなりに汚れている。便座は初めから構造上ないのではなく、写真を見ればわかるように設置した後に取り外しているのだろう。なぜこういう事(便座をなくす)をするのかは知らないけれど、例えば僕ら日本人の多くは日本にいて、トイレの便座は共用設備であるという一応の「常識」の中で暮らしている。でもその「常識」というのは、しょせん特定共同体の中での約束事なのであって、世界全体の常識というわけではないのだろう。
例えば、僕らがホテルや漫画喫茶なんかに泊まって洗面所に行った際、そこに宿泊する客や従業員、みんなで使う用のふるびた歯ブラシが一本置いてあったとする。そしたらおそらく、その歯ブラシを使う人はゼロに近い確率でいないだろう。家族みんなで同じ一本の歯ブラシを使っているという家庭もたぶんないだろう。ほとんどの人は(僕も当然そう)歯ブラシを共用で使うなんて「なんかキタナイ…」と感じるから自分専用の歯ブラシを持っている。ここで公衆便所の話に戻るんだけど、便座という物はだいたいの日本人にとっては「共用される物」という存在なんだけど、ある特定の国や共同体にとっては便座を共用するなんて歯ブラシを皆で使いまわしするくらいに非常識な事なのかもしれない。
と、いうような事を散歩しながらつらつらと考えていた。トイレの話というのはとても奥が深い。
便座は共用というのが日本人の「一応の常識」と書いたけれど、もちろんそうじゃない人もいる。
日本人の中にも当然便座に座れない人もいる。世の中には複数人で鍋をつつけない人もいるだろうし、電車の吊革やエスカレーターの手すりを絶対に持てない人もいるだろう。そういう個々人の常識非常識にまで踏み込んで考え出すともうキリがない。自分だけの、他人には通用しないし理由もわからないけれどなぜか存在する「ヘンな常識」「ヘンなルール」というやつだってあるだろう。僕の場合だと、僕は納豆が大好きなんだけれど、食堂や酒場他で外食をする時に「納豆を頼めない」という変な性癖(?)がある。これはご飯と納豆なり、納豆だけを頼んでそれを食べた後の、容器につくヌラヌラを「他人に洗わせるのは申しわけない」と何故か思ってしまうからだ。
この「自分が食べた後の容器についているヌラヌラを他人が洗う場面を想像するといたたまれない気持ちになる」という僕の感覚は、誰かに共感された事はないのであくまでも僕個人の病気みたいなもんだろう。いちおう言っておくけどこれは別に納豆のヌラヌラが嫌いとかそんなんじゃないんだよ。他人が納豆を食べた後の容器とか当然普通に洗うし他人が食べた後のヌラヌラに関してなんて一切なんとも思っていない。でも自分が食べた後の納豆の容器についているヌラヌラを他人に洗ってもらう、というのがなんかもう、悪い事でもしているような気分になって。。。だから二十五年間吉野家に通い続けていて一度も納豆定食とか頼んだことないな。申しわけなくて。
それで何の話だっけ。便座か。この写真は大きいスーパーに行った時のもので、そこでは棚一面使ってトイレの便座だけが大々的に売りだされてるんだよ。結局なんでメキシコのトイレに便座がないのかはわからないけれど、まあないからないんだろう。納豆に関しては、ここを読んでいる人にもそれぞれの中で、「なんか知らんけど……あかんねん(すんません)」みたいな自分だけのヘンな性癖みたいなもんがあると思う。すんませんとしか言い様がないような。そういう、他人には一切理解不能な所にポツンと存在する自分だけの不条理…をかかえている人、もしいたらどこかで教えて下さいね。僕の「料理屋で納豆たのめない」てのもたいがいだな。聞いた人も「気にするな」としか言えないし吉野家の店員さんだって「気にするな」としか言えないだろう間抜けすぎて。だからほら、こう…他人に説明できないもん。そういうやつ。ないっすか。


