この前エロビデオを見ながらオナニーしている時、ふと「新人18歳恥じらいデビュー」というようなパッケージの惹句について「あ…この人はオウム事件も阪神大震災も知らないんだな」という事を考えてしまって、結局オナニーにならなかった。…という書き方は嘘になる。ちんぽだけは正直にたったので、オナニーにはなったのだ。テレビブロスにこの前書いた事とだぶるけど、1995年に起こった地震から2010年に「その街のこども」というテレビドラマが放送されるまでの間に流れた15年という歳月についてよく考える。誤解を恐れずに敢えて大雑把に、これはあくまでも自分個人だけの考えである事を強調した上で言いたいのだけど、大きな悲しみが一つの「物語」として再生するためには短くても15年かかる。子どもたちが大人になって再会するまでの途方もない時間。もちろん15年たっても悲しみは悲しみのまま、どこにも行けない人だってたくさん存在する。自分たちが(自分が)今いる時間は、いつまでも過程のままなのだ。いまその辺を走りまわっている子どもたちが大人になって居酒屋で乾杯したりする時、自分が生きていれば50歳を超えていて、その時になってようやく、僕らはこの現在を振り返る事が出来るんじゃないかという気がしている。なにを悠長な、という人だっているだろう。それは思考を放棄しているだけだと言う人だっているかもしれない。でも僕は、現在というのは描く事が出来ないものだと思っている。現在は、生きる事しか出来ない。1995ー2010、2011ー2026。それはほんと、途方もない時間で、その間に生まれる人も死ぬ人もいるだろうし、自分だってどうなってしまうかわからない、やりきれない長さなんだけれど。来年の1月17日や、今年の3月にも、また同じような事を考えていると思う。そうやって年をとっていくのかと思うとイヤになったり。そんなもんなのだと思ったり。毎年、この日は5時46分まで起きていようと思うんだけど、今年(今日)は5時30分に時計を見た記憶があるのを最後に、本を読みながら、結局寝てしまった。起きて窓を開ければ天気が良い。布団を干す。ササミを茹でる。そんな一日の始まりだ。今はコーヒーを飲んでいる。散歩に出て、日の当たる道を歩いて。夜になるとまたオナニーするんだと思う。