はてなダイアリー平民新聞

創業2002年か2003年、平民金子の元祖はてなダイアリー日記です。

撮影日記

初めて降り立った土地の、まず暑さに驚いた。トンカツを食べながら、どうやって写真を撮ろうかと考えるが、まったくイメージがわかない。ままよ、と思い、依頼主(以下、X。敬称略)の車の助手席に乗り最初の物件へ。Xは「自由に撮って下さい」「すべてまかせるから」と言い運転席に座ったまま、煙草をふかしている。ぼくは建物の前に立ちシャッターを切る。数枚撮ったところで「こりゃ駄目だ」と気付く。目の前の建物に、ぼくは完全に見下ろされている。アングルを変え、場所を移動し、さらにシャッターを切る。こりゃ駄目だ。何かを変えないといけない。


ぼくは体を動かしながら、ともすれば絶望に着地しそうな思考を上へ上へと引き上げる。変えるべきは何か。俺の頭だろうか。手の平にはじっとりと汗をかき、指先が軽くふるえる。後ろを振り返る。Xはこちらを見て、にこにこと笑みを浮かべている。なんだか、なつかしい気がした。ぼくは、おそらくはXに信頼され、おそらくはXに試されているな、と思う。この感覚。夏の日差し。ぼくはこういったものからひらひらと、逃亡し続けてきたんだ。指先のふるえがおさまる。なあ、結局何も変わらない。何も変わらないと思うところから、俺たちはすべてを始めなくちゃいけないんだろ。


「この感じだ」


なつかしい声がきこえる。見知らぬ町で覚える唐突な既視感。炎天下。Tシャツが汗で濡れている。ぼくはシャッターを押す。気持ちがフッと、ふりきれた気がした。建築は、そこに死して在るのではなく、いつまでも完成することなく脈動し続ける生き物だ。家々は呼吸している。ぼくは立ち止まり、建物の、そこに住む人たちの息づかいに耳をすましたいと思う。変わるべきものは何もなく、ただ、耳をすますこと。幻の人いきれ。この町の、夏の日差しが陽炎となりぼくの前に立ち上がる。シャッター音。やあ、ようこそ。ずいぶん楽しそうにしてるじゃないか。シャッター音。はじめまして。ぼくは遠いところからやってきました。ぼくはシャッターを切る。首筋を汗がつたう。この感じだ。


振り向くと、Xはどこにもいない。ぼくもまた、陽炎に溶かされる。シャッターの響きだけが連続し、町にこだましていた。