深夜、ぽちぽちと歩いての帰り道、たまにすれちがうサラリーマンや学生、ホームレス、老人、警察官、猫、などを見ながら、もし生きている物ぜんぶのその背中に、残り寿命を告げる電光掲示板のようなものが設置されていたらどうなるだろうかなぁ、と想像する。80歳で死ぬ人が今現在5歳なら残り寿命は75年だから75×365日(計算すんのめんどくさい)が表示され、一週間後に死ぬ人は、7と表示されている。で、そうなったときに、人というのは他人に対し、今よりもっとやさしくなるのだろうか、あるいは今よりもっと残酷になるのだろうか、とかそういうことを考える。俺はどうすんだろ、とか。親の背中を見てあわてて親孝行すんのかな、とか。ある日自分の背中を鏡にうつし、次に猫の背中を見て、あれ、俺ニャンコに負けてんじゃんか、とかくやしい思いをしたり。で、まあ結局、そんな仕組みは在りえないし(身も蓋もない…)、あったとしてもやさしくなるやつはやさしくなるだろうし、ざんこくになるやつはざんこくになるだろうし、かわらないやつはかわらないだろうから、ま、なんつーか、今といっしょだ、というような結論に、達したところで大通りにかかった歩道橋の階段をのぼり、行きかう車を真上から眺めていると、ふと「タクシーに乗りたいなー」という気分になった。マノン・レスコーという小説がむかしすごい好きで、好きとか言いつつストーリー忘れちゃったんだケド、追われた男と女が馬車(?)にのって「この世の果てまでいっしょに逃げよう」みたいなシーンがあったような気がする。てくてくと歩道橋の階段を降りながら、でもそんなシーンはなかったかもしれない、とも考える。道に落っこちたツツジの花を足でいじりつつ、でも「この世の果てまで」ていうフレーズは絶対にあったよなあ、と思い直す。ツツジの横に落ちていた、ひろった木の枝でガードレールをカチカチと叩いて歩き、そういえばおれ、最後にタクシに乗ったのっていつだったっけ…?というようなことを考えているとなんだかものがなしい気分になってきたりもするケド、コンビニのあかり、自動販売機、郵便ポスト、すぐに逃げる猫、寝ているホームレスのおっさん、などを通りすぎ、いつもの銭湯の、暖簾をくぐる。下足箱、今日は何番に入れようかなあ、といっしゅん迷い、ラッキーセブン、7番に入れようか、とも思ったけど、阪神ファンならやっぱバースだろ、ということで44番に入れた。ここは甲子園球場。俺は全裸のランディ・バース。この扉をあけると大観衆の声援につつまれるのだ…!と、ここまで妄想しながら番台のおばはんに「あ、どうも」と入浴料を払い、服を脱ぎ、いきおいよく扉をあけると、銭湯は普段通りの、ジャグジーの音につつまれていました。