そろそろ高田渡が死んで三年になるのか、というような事を、何がきっかけだったのか、ぼんやりと思い出し、部屋でプロ野球開幕を伝えるラジオをききながら焼酎を、ガブリガブリと飲んでいたのは何日か前の話なのだけれど、三年前、高田渡が死んだ4月16日に日記の日付を合わせ、痛々しい文章を敢えて書き残しておいた時の気持ちはわりかし覚えていて、おい、これ、あとから読み返したらきっとすげえ恥ずかしいんだゾ、なんて事を、自分でも充分すぎるほどに意識しながら、更新ボタンを押したのだった。
http://d.hatena.ne.jp/heimin/20050416
http://d.hatena.ne.jp/heimin/20050419
あれから時間が流れ、当時の日記をいま読み返してみても、予想に反し、ぜんぜん「恥ずかしいゾ…」というような意識はなく、むしろアカの他人が書いたもののように、新鮮な気持ちでスルスルと読めてしまったのは、ようするに、ぼくが三年分おっさんになったのか、あるいはスッカリ別の人間になってしまったからなのかもしれないナ、と思った。
別の人間ってナンだ?
自分にも、変わっていないものと変わったものが、もちろんあるんだろうけれど、十代の頃からぼくはずっと高田渡に憧れていて、高田渡のように、友部正人のように、ジャック・エリオットのように、フォークシンガーになろうと思っていた。で、せっかくだからと高田渡の住む東京にやって来たんだけど、残念ながら渡さんは案外早くに死んでしまった。ぼくはああいういつ死んでもおかしくなさそうな人間は案外長生きするもんだと信じていたから、けっこうショックだった。
東京に来てからの数年間、というかそれ以前から、ぼくは自分の言葉が死んでいる、というような思いにとらわれ続けていた。言葉が生きている、とか死んでいる、とかいうのは結局のところ抽象的な、あくまでも主観的な話にしか過ぎないのだけれど、ノートに何を書きつけても、自分の言葉というものが、ひからびた小動物の屍にしか見えなかった。
髭をそらない日はない
夢はもういらなくなった
もういちど血のなかをとおってこい
弾丸よ 言葉よ 錠剤よ*1
何年もずっと、鮎川信夫の「生き残った者のためのエピタフ」という詩のことを考えていた。「もういちど血のなかをとおってこい」という言葉がある種の祈りであるならば、そこでもういちど通ってくるかもしれないところの「言葉」とは、それは、よく見慣れた景色なのか、それとも新しい風景なのか。
S、高田渡ノシヲシッテ、オレハオマエノコトヲ考エタ、オレガ殺サナイカラ、オマエハイツマデモ死ネナイママ、イツマデモ死ネナイママ、オレハオレノ死ヲカイテ、オマエニダケ、トドケタカッタ、オマエノ目ニ、オレノシルシヲツキツケテ、ソシテ、他人ノ死カラシカ、ヨミガエルコトヲシラナイ、オレノ、ヤサシイ言葉ヲ、今、コロシタイ。
2005年4月16日。高田渡の死を知り、ぼくは渡さんの死によって、なぜだか「自分の言葉がよみがえるナ」と確信した。そして同時に、他ならぬ高田渡の死によってヌケヌケとよみがえってみせる自分の言葉というやつを、憎み、コロシタイと思った。そのとき初めて、高田渡という一人の人間によって喚起されるところの自分の心象風景のすべてをあとかたもなく焼き払ってしまいたい、と強く思った。自分の血、そして言葉をぜんぶ入れかえたかったのだ。ぼくは新しい風景を手に入れたかった。
S、同ジウタヲウタワナイ事ガ、今モ、コレカラモ、オレタチガ生キテイルトユウ、チンケナ証ナラバ、オレモ、オマエモ、モウ、Tノイタ景色ヲ振リカエッタリハシナイ。振リカエッタリハシナインヤ
新しい言葉、新しい風景を手に入れ、自分の血をすべて入れかえる、なんていうことは、結局のところ幻想に過ぎない。そんなことはハナからわかってるんだけれど、それでもなお、三年前のぼくは、T=高田渡のいた景色を自分の人生から断ち切りたかった。
きみが死んだあと
昼も夜も電話がなった
そのたびにぼくは
きみが生き返ったのかと思ったよ
そしてついにお葬式の日がきた
きみはとうとう生き返らなかった
ぼくはきみにさようならと言った
ぼくはきみにさようならと言った*2
最近のぼくは、ギターを持って曲を作るかわりに、カメラを持って猫や電車の写真を撮っています。あとはこの平民新聞もかわらずに更新し続けております。ぼくたちはもうずいぶん長いこと会っていないから、今さら向かい合っても共通の話題はないかもしれないけれど、S君、変わらず元気にしていますか。あれからもう三年がたとうとしていて、ダルビッシュは開幕完封、ぼくはまあまあ普通です。お互いに長生きしよう。高田渡よりもずっと、長生きしようね。