中学生の頃も高校生の頃も、ぼくがほとんど誰とも口をきく事がなかったのは、いくつかの理由があるんだろうと思う。たとえばその頃は競走馬の世界にしか興味がなかったとか、そもそも学校自体にあまり顔を見せなかったとか、結局のところどうしても集団生活というものになじめなかったとか、まあ色々。と、いうわけで、いつもぼくは朝から晩まで一人で公園にいて、寝っ転がったりとか、空を見上げたりとか、そんなことばかりしていた。もちろん他にも色んなことをしたりしたのだろうけれど、今の自分に残っている学生時代の記憶の原風景というのは、朝、駅でパンを買い、その足で公園にむかって芝生に寝っ転がり、半分は自分で食べ、残りの半分をハトにあげ、見上げていた青空、とかそんなのばかりだ。
友達がほしいなあ、とか、そんな事ばかりいつも考えていた。でもその頃から、どうせ俺なんてな、みたいな認識があり、その、どうせ俺なんてな、ていう認識は、今でも時々ぼくの頭の中を走りぬけたりする。一人でいたところで、特に、さびしいな、とかそういうのは思ったことはなかった、とかなんとか、言ってみたい所なんだけれど、今になって考えてみれば、あの頃の自分はわりかし、さびしかったんじゃないか、とかそんな風にも思ったりする。ただまあ、さびしさなんていうのは一人でいたって大人数でいたって感じるものだし、さびしいなんていうのはぼくが一人で発明した感情でもないのだし、みんなそれぞれどっかしらにさびしさは抱えているわけだから、まあさびしいなんていうのは所詮どうにもならない、珍しくもなんともない感情だ。
二十代のある時期から、さびしいという感情とセットになって、なんかもうどーだっていいや、というような感覚がめばえた。大切な人を失っても、さびしいな、でももうどーだっていいや。この音楽は素晴らしい、かっこいい、でもまあ、どーだっていいんだけど。みたいなもう、何かにつけて、頭のすみっこには、何がどうなろうが、誰が何しようが俺がどうなろうがアンタが死のうが生きようが、もうどーだっていいんだよ、みたいな、感情の起伏のなさ。その起伏のなさをなんとかしたいような気もするんだけど、それすらどーだっていいや……ていう、なんつうのか、どんづまりの感情。で、急に話はかわるんだけど。
東京に出てきた頃、ぼくは毎日、近所のある食堂に通っていた。人と会うことも少なかったので、朝から晩までそこにいて、コーヒー一杯で一日中本を読んだり、ノートに何か書きつけていたりしていた。その頃、毎日がわりと楽しかった。食堂にはあまりお客さんがいなくて、いつも店のおばちゃんとおっちゃんが二人、ひまそうに座っていた。おばちゃんはぼくに色んな話をしてくれた。いや、してくれた、というよりは、色々とぼくの話をきいてくれた。アパートにストーブがなくて寒い、とか、家賃が払えず大家に怒られた、とか、ここに来る前は北海道に住んでいたんですよ、とか、そんな話。おっちゃんはあんまりしゃべる人じゃなかったけれど、時たまにっこりと笑って自分が撮った花の写真とかを見せてくれた。そんな風にお世話になった食堂が閉店になるという話をきいたのは、去年のこと。
食堂が終わる最後の日に、ぼくはカメラを持って出かけた。定食を食べ、アイスコーヒーを飲み、レジでお金を払う時に、今までほんとうにお世話になりました、毎日コーヒー一杯で長時間いたりしてほんとうにごめんなさい、ここに来て座っている時間がとてもたのしかったです、ほんとうにありがとうございました、お世話になりました、とか言ってるうちに、なんだかもう、泣けて仕方がなかった。ここの食堂は自分にとって、すでにどーだっていいものではなくなっていたからだ。二人でならんでいるところを写真に撮らせてくださいよ、とお願いした。なんだか恥ずかしいわね、といっておばちゃんが笑う。ちょっと待てよ、と言っておっちゃんが帽子をかぶり直し、鼻毛出てねーか?とぼくに聞いた。大丈夫です、ほんとうに今までどうもありがとうございました、と言って、シャッターボタンを押した。かんじんなところでぼくはいつもピントをはずしてしまうんだけれど。
