はてなダイアリー平民新聞

創業2002年か2003年、平民金子の元祖はてなダイアリー日記です。

誰に言葉を

十代の終わりから、二十代のはじめにかけて、ぼくは大阪の某有名歓楽街で水商売をやっていた。水商売といっても色々あるのだけど、ぼくの勤めていた店は、主に女性(時として男性)を相手にするホストクラブ、というようなあれではなく、お客さんのほとんどが男性(時として女性)であるところの、ホモスナックである。なぜゲイと書かずにホモと書くかといえば、当時お世話になったマスターが、自分たちのことをゲイとは言わず、ホモ、あるいはオカマ、と呼んでいたからだ。あたしたちはゲイなんてシャレたもんじゃない、しょせんオカマだから、というように。


なぜ自分がこの店で働くようになったのか、という理由に関しては、ま、いろいろあって、としか言いようがないのだけど、とりあえずぼくは面接において裸にさせられ「うん、この体だったら」というよくわからない理由で合格となり、「今日はみんなが女の子になる日だから、あなたは鶴子ちゃんね」と、源氏名まで頂き、厚化粧をほどこされ、面接に行ったその日から、チマチョゴリを着て働く事になった。翌日になると、今日は軍人になる日よ、と軍服を着せられる。そんな店だ。面接に合格、とか言うと、なんだか大きな店のような感じだけど、店は5、6人が座れるカウンター、あとはボックス席が一つあるだけ、という小さなもので、ぼくとマスター、あとは聖子さんという、ぼくより一つ年上の、松雪泰子に似たきれいな顔立ちの男の子がいただけだ。


そこの店で起こった出来事や、様々なお客さんとの思い出、あるいは聖子さんとぼくとのあれやこれや、ようするに、ぼくがこの店のカウンターで出会った、そしてマスターに連れられ夜な夜な歩いた当時の大阪の水商売世界の、さらにどんづまりの世界で出会った忘れ得ぬ人々、については、書き出すときりがない。とりあえずあの頃のぼくは、慣れない水商売の世界になんとかとけこもうとし、しかし当然の事ながら素人がヘラヘラ笑っているだけで務まるほどに「男」の世界は甘くはなく、毎日仕事が終わった朝がた、胃の痛みに悶えながら嘔吐を繰り返すのが日課となっていた。マスターに仕事の悩みを相談しても、一通りぼくの話を聞いたあと「●●ちゃん、よくわかる。大変ね。じゃあとりあえず服を脱いでみなさい」と、よくわからない解答が得られるだけなので、仕事のことは誰にも相談しなかった。


その頃お世話になったお客さんの一人に、ヨシ子ちゃんというお婆さんがいた。ヨシ子ちゃんは七十過ぎで、いつも真っ白いドレスのような、フリルのたくさんついた、わかりやすく言えば、ヨコハマメリーさんのような格好をしていた。「●●ちゃん、会いにきたよー」と言っては、よくお店に遊びに来てくれたヨシ子ちゃんは、ぼくが何らかの失敗をし、マスターやお客さんから注意を受けたりするたびに「●●ちゃんは慣れない世界でがんばってるんだから失敗して当たり前じゃないの」と一方的にかばってくれ、時にはヤの字のかたとぼくとの間にたち、彼らと喧嘩になる事もあった。しかし結局どんな客でも最後は「ヨシ子ちゃんが言うんだから仕方ない」とぼくを許してくれるのだ。ヨシ子ちゃんはそういう存在だった。良く言えば、みんなから愛されている。でも一歩ひいて見ると、ヨシ子ちゃんは、みんなから敬遠されていた。あまりにもその存在に謎が多かったからだ。


ある時、店内にぼくとマスター、そしてカウンターにはヨシ子ちゃん一人だけが座っている、という状況があった。時間はもう夜中の三時か四時頃になっていて、今日はもうお客さん来ないわねえ、店しめちゃおうかしら、などとマスターは言っていた。するとヨシ子ちゃんはぼくの目を見て、次にマスターの方を向き、「ねえ、今日これから●●ちゃんかりていいかしら?」と言った。「あら、ヨシ子ちゃんどうしたの?まあ別にいいけど」とマスターは答え、ぼくに「●●ちゃん、今日はどうせお客さん来ないし、もう仕事終わりでいいからヨシ子ちゃんと遊びに行ってきなさい。はい、これ帰りのタクシー代ね」といって、ぼくに一万円をくれた。「はぁ…」とぼくはよくわからないままに、服を着替え、帰り支度をした。


店を出ると、ねえ●●ちゃん、とヨシ子ちゃんがぼくに話しかける。「腕、組んでもいいかしら?」ぼくは「あ、いいですよー」と言って、右腕を差し出す。ぼくとヨシ子ちゃんは二人、腕を組みながら、夜の街をトボトボと歩いていた。「●●ちゃん、なんかこんなんして歩いてると、わたし、若い頃おもい出すわー」「わたし、この世界で生きてきて、昔はけっこうモテたのよ。でもね、いつも好きな人はひとりだけ」「●●ちゃん、こんなお婆ちゃんと歩いてたら、変な目で見られるかな。今日は、ごめんね」いや、ぜんぜんそんな目で見られてないよ。ヨシ子ちゃん若いやん。そう言うと、ヨシ子ちゃんは顔をくしゃくしゃにし、笑った。ぼくはヨシ子ちゃんの歩幅に合わせていた。


ネオンの街を通り過ぎ、徐々に人通りも少なくなった頃、ヨシ子ちゃんが、わたし、いっぺんに歩くのしんどいから、ちょっとここで休憩しよ、と言った。ぼくらはドブ川にかかる橋の上にいた。ヨシ子ちゃんはその場にしゃがんで一息つき、ぼくは欄干にもたれて煙草を吸っていた。「●●ちゃん、あたしね、●●ちゃんのこと、大好きよ」「●●ちゃんはあたしみたいなお婆ちゃんにもやさしくしてくれるから大好き」「●●ちゃんはやさしい。やさしいから大好き」ヨシ子ちゃんは同じことばかり繰り返し言っていた。「あ、そうだ●●ちゃん、ずっと前にマスターが言ってたけど、●●ちゃん、詩を書いてるんでしょ?」え?と、ぼくはいっしゅんにして顔があかくなった。ぼくは当時、諏訪優さんが訳したアレン・ギンズバーグの詩集を読み、ビートニクたちの詩、そのもの、というよりは、生き方に感化され、いつもカバンにノートを入れて、ひまさえあれば頭の中に浮かんだわけのわからない言葉をただ書きつらねていた。


「いや、あれは、詩とかそんなんじゃなくって……」ぼくはしどろもどろになり、何故か、わきの下や手の平からは大量に汗が出てきた。何本目かの煙草に火をつけ、いや、あれは詩、とかそんなんじゃないんだよ……「じゃあ何?」……うん、なんか、よくわからない。ただ、書いてるだけ。詩、とかそんなんじゃないよ。「●●ちゃんの書いた詩、読んでみたいな」「詩なんて書いてないよ」ヨシ子ちゃんはそのあと、若くして死んでしまった、自分の恋人の話をした。あたし、ヤクザが大嫌いやのに、好きになる人はみんな、ヤクザばっかり。浮気ばっかりしてね。喧嘩はいいけど、浮気は駄目。あたしね、だから浮気できないように、相手のものをね、全部すいとってやるの。●●ちゃんもね、あたしがもうちょっと若かったら、あたしのこと好きになるわ。そしたらね、あたし●●ちゃんのもの、全部吸い取ったるからね。「ヨシ子ちゃん、こわいなあ」こわくなんてないよ。気持ちいいじゃない。●●ちゃん、でもね浮気も駄目だけど、あたしより先に死んじゃうのはもっと駄目。男だったらね。長生きしなきゃ。


ぼくはその日、ヨシ子ちゃんが暮らすアパートに行った。六畳の部屋とキッチンがあるだけの狭い部屋。家具はといえば冷蔵庫と古いタンスが一つ、ちゃぶ台があるだけだった。他には何もなかった。ぼくらは何かを話したわけではなく、ただ、二人とも、疲れていたような気がする。「ここね、朝になるとまぶしくて」ヨシ子ちゃんがカーテンをひいた。部屋はまだ、薄暗かった。待っててね、●●ちゃん、いま布団しいてあげるからね。でもお布団ひとつしかないから、●●ちゃんは布団で寝て。あたし畳の上で寝るから。「ヨシ子ちゃん、逆やんか。ぼくが畳で寝るよ」「●●ちゃん、遠慮せんでいいよ。あたしどこでも寝れるから。ほら、ずっと、外で寝てた時もあったし」ヨシ子ちゃんはそう言って、顔をくしゃくしゃにし、笑った。「●●ちゃん、なんか今日はあたし、すごくうれしいわ。●●ちゃん、やさしいね。ありがとう」二人並んで横になり、しばらくすると、ヨシ子ちゃんの寝息がきこえてきた。ぼくは、だんだんと朝の光に照らされていくヨシ子ちゃんの部屋の、天井の木目をぼんやり眺めながら、ふと、自分が今、書いている言葉は、ヨシ子ちゃんには届かない、ぜったいに届かない、と思った。ぼくは誰に言葉を届けたいんだろう、そう思い、目を閉じた。それでも部屋はまぶしかった。