アメリカであの事件が起こったちょうどその時、おれは近所の銭湯で湯船につかっていたわけだが、その銭湯は、今はもう跡形もない。そして七月一杯でもうひとつ近所の銭湯が廃業し、さらに先月また一件、なくなってしまった。これでアパートから歩いて行ける距離に、銭湯はたった一件だけになった。「この幸せがずっと続けばいいのにと思った」とは誰の歌であったろうか。まあ、どこにでもある歌詞である。幸せに限らず、今ある状態が「ずっと続けばいいのに」とゆうのは、今ある状態が「もしかすると続かないかもしれない」という可能性を考えた上での相対的な感情であるわけだが、それは銭湯だけでなく、たとえば性春時代や、たとえば恋人とのつきあいにおいてもそうだと思うのだけれど、なかなかに日々の生活において終わりを想定して暮らす(「もしかすると続かないかもしれない」)とゆうのは難しい。いや、難しいと書いてしまうと語弊があるかもしれないので、言いかえる。日々の生活において終わりを想定して暮らすというのは、少々かなしい。終わりがあるからこそ一日一日を大切に、などというのは所詮理屈である。やはり終わりというのは、想像するだにかなしい事なのだ。だから終わりは想定しない。このままの状態がいつまでも続くものだと思っている。いや、でもその願望というのは終わりを想定した上での相対的な感情であって、だがしかし……以下、ループ、なのだが、まあなんてゆうか。とりあえず、近所で唯一残った銭湯であるところの日ノ出湯のバアサン。長生きしろよ。