いましろたかしとしりあがり寿の対談目当てにコンビニで「relax」(http://relax.magazine.co.jp/top/index.jsp)を立ち読みしてたら木山捷平「失業者の夕暮」とゆう詩がのっていた。それがけっこうおもしろかったので図書館に行って詩集をパラパラ読んでいて、ようやく気付いた。この人は高田渡「長屋の路地に」の詩を書いた人だ。「長屋の路地に〜今日も飴売りがやって来た」ってやつ。昔古本屋で買ったユリイカ(1971年12月号/特集:戦後詩の全体像)にのってた石原吉郎の「葬式列車」がえらいかっこよかったので詩集を買って読んでいたら、やっぱりこの人の詩も高田渡が「さびしいといま」「酒を飲みたい夜は」などに曲をつけていて、木山捷平石原吉郎いずれも、ぼくとしては初めて読むつもりであった人たちなのだが、そんな事はなく、すでに高田渡のうたを通じて古くからその詩を耳にしていたのだった。考えてみれば高田渡の「長屋の路地に」をはじめて聴いたのはたぶん十九歳くらいの頃で、もちろんそれを聴きながらライナーも読んでるはずなのだけれど、作詞者の名前を全く意識していなかった。それから十年、アイスクリームを買いに行ったついでの立ち読みという、まあひょんな偶然から、木山捷平〜赤い着物を着た親子(「長屋の路地に」の原題)〜高田渡とゆう線がつながったのである。まあ線がつながったといっても別にたいした意味はなく、ただ単にひとつのうたに対して、ひとつの詩に対しての視線が、いくらか立体的なものになったのではないだろうか、とゆう個人的なよろこびである。でもこれはナマケ心から気付くのに十年もかかっただけ、とゆう風にも思うし、真面目にライナーをチェックしていれば別にこんな出会いに興奮することもあるまいから、結局まあ、よろこんでよいのやら、あきれたりかなしんだりした方がよいのやら、よくわからない。
失業者の夕暮/木山捷平
今日も職は見つからなかつた。
ペコペコになつた腹をかかへて
護国寺裏の坂道を上つてかへる。
坂から見下す町町には
夕べのあかりが華やかにともつて
そこここにたのしい夕餉がはじまつてゐるやうだ。
しばらくたちどまつて
そのなつかしい夕景をながめてゐたら
犬が
俺の前にすこすこと出て来て
おいしさうにウンコを食べて見せた。
(木山捷平全集第一巻所収:昭和二年)