はてなダイアリー平民新聞

創業2002年か2003年、平民金子の元祖はてなダイアリー日記です。

山端庸介が撮った長崎原爆投下翌日における死体、死体、死体の写真を眺めながら、
「人間は原子爆弾に焼かれるほどに、自由なのだ」と口ずさんでみる。
おれが好きだった藤原新也の「人間は犬にくわれるほどに、自由なのだ」とゆうあの写真も、
しょせんはなんとゆうか、ロマンでしかない。同じように山端庸介の写真もまた、
想像する事が絶対的に不可能であるところの、そこにあったはずの一個の死体に対しては、
絶望的にこれまた、なんとゆうか、ロマンでしかないのだ。ロマンでしかありえないところの
一枚の写真をみて何事かを感じ真剣に発してみたところで、それが冗談にしかなり得ないのなら、
ああおれは今無性に餃子が食べたい,たとえばロックとは、ジャズとはどういったものだろうか、
と、ただ一言発するだけで、ロックやジャズは間違いなくおれから果てしなく遠ざかっていく。
そんな事どうだっていいじゃないか、って、ほんとうにそう思っているのか?
ただ一言発するだけで、はてしなく遠ざかっていく言葉に、それでもおれはピントを合わせたい
のだと、「戦争はいやなものだねえ」とか「被爆者が持つおにぎりがうまそうだねえ」とか、
言ってみたり、泣くも地獄、笑うも地獄、ああおれは今無性に餃子が食べたい、おれは生きて
いると同時に死んでもいるのだから、おれは死者と語り、「戦争」や「アメリカ」や「原子爆弾」
とゆう言葉をぬきにして、たとえば八月九日の長崎を語る事が可能であるのかどうか、確かめに行く
のだ、ある日、急にふわっ、ふわっと。(続く)