
きのう池袋をぷらぷらしてると某所で一万八千円のバックパックが三千八百円で売られていて俺はそれをレジまで三メートルの地点まで持っていったのだが結局のところやめにした。その後ビックカメラに行くとデジカメのけっこういいやつが三万いくらで売られていたのでそこでも迷ったのだがやっぱりあきらめた。別に以前からリュックとデジカメが欲しかったとかそおゆうわけではなく近頃なんとなく金を使いたい気分なのであった。文芸坐でカンフーハッスルとかイメージフォーラムで猟人日記かまあひまつぶしに映画でもみようみようとは思えども何もみていない。
で、今月の俺はとゆえばこのよおな調子でまったく金を使わずにきた。とゆってみても必要最低限の生活費とゆうのはかかるわけなのであって、そおゆうものをこれから新生活をはじめようとする犬猫書生貧乏人のためになんとなく公開してみると、家賃に電気水道代(ガスは契約していない)ふくめて二万七千円くらい。それにプロバイダ料金を払って職場までの定期券代をいれると合計で四万円くらいになる。そして煙草代が九千円、部屋でのむ酒代がまあ六千円としてふたつで一万五千円ほど。ここまでは酒煙草仕事ネットをやめない限り毎月変わらず絶対にかかるのである。五万五千円。
それで通帳をみてみたら今月はだいたい七万円弱使っているので、食費と遊興費いれた金額が一万五千円くらいなのであった。さらにこまかく食費を分析してみると一ヶ月で食う米を10キロと計算して(そんなに食わないと思うけど)、まあ三千五百円くらい。んで俺の場合おかず用として八百屋で七百円買い物したらそれで四、五日は三食弁当含めて暮らせるから、八百屋代がたぶん五千円くらいである。外食した記憶はほとんどなく、阿佐ヶ谷のキッチン・ユーでチキン定食を一度、吉野家で豚丼を一度、あとはパンを何個か食ったくらい。だから食い物にかかってる金は一万円くらいだと思う。
それであとの五千円で何をしたかとゆえば、特に何もした記憶がないので、おそらくはどこかに行く交通費であるとか古本屋なんかで細々と使っているのだろう。ちなみに風呂は職場にあるので銭湯代がかかっていないのであるが職場風呂がなくても友人知人愛人あるいわ台所を使えば大丈夫なのであった。
と、ここまで書いたところで俺に重くのしかかるのは、高田渡が父親から言われたとゆう「貧乏になるのはいいけれど、貧乏に慣れてはいけないよ」なる言葉であって、なんとゆうか、おれにはそのかなしく響く言葉の意味が、わかるのだ。あるいわこのエピソード、おれはバーボンストリートブルースで読んだ気がしているのだが、記憶がはなはだ曖昧であるので、そんな言葉、なかったかもしれないし、またまったく別の言葉であったのかもしれないのだけれど。
貧乏に慣れる、とゆうのはどおゆう事なのだろうか。わかると言っておきながらどおゆう事なのだろうかと問うのもなんなんだけれど、まあそおゆう細かいことは置いといて、ここで貧乏に「慣れる」とゆう言葉を、貧乏に「自足する」とゆう言葉におきかえてみて、「貧乏」とゆう言葉を「生活」におきかえてみる。「生活」に「自足」してはいけないよ。あるいわ生活に慣れてはいけないよ。ちなみになるべくなら誤解をされたくないので一応ことわっておくと、ここでゆうところの「生活に慣れてはいけない」とゆうのはけっして、生活や人生にやみくもに不満をとなえる、とゆう事にはつながらない。
閑話休題。ここで最近読んだ本の中から俺の好きなセリフを突飛に引用。
絶対的な主観のかわりに絶対的な「自己客体視」や「世界視線」を置いたところで、それは同じことである。往復関係を欠いた超越的な視線の肯定は、結局は主観の絶対視につながっていく。 (極西文学論/仲俣暁生 ISBN:4794966458)
このフレーズは、こんな言葉に感応する。
神話に対抗することは、ある神話を滅ぼして別の神話にいれかえること、たとえば単一民族神話を批判するために混合民族神話をもちだすことではない。求められているのは、神話からの脱却だ。 (単一民族神話の起源/小熊英二 ISBN:4788505282)
このフレーズに関するかぎり「極西文学論」とゆうのは「単一民族神話の起源」への、アンサーソングなのではないかと思ったのである。宮沢和史の書いた「手紙」*1に対する山口洋の、「拝啓ミスターソングライター*2、あんたのメッセージを受けとった」ではないけれど。
そして閑話休題ついでにもうひとつ「貧乏」話を。高田渡の場合の父から子へとゆうのとは逆の、子(山口泉)から父(山之口獏)へ、とゆうやつ。これまた過去に引用した文章なのであるけど。
貧乏だったからこそ貘さんはよい詩が書けたのだという人がいます。そういう人はたいてい最後につけ加えます。人間、金をもっちゃおしまいだと。 たぶんその人はぎりぎりの貧乏に追いつめられたことがないのだろうと、私はいつも考えます。だってお金はないよりあるほうが良いのです。たとえそれをもつものが詩人であろうと絵描きであろうと、お金がたくさんあるのにこしたことはないのです。それなのに貧しくない芸術家を軽蔑してみせる人は意外に多いようです。おかしな話だと思います。 だって、それこそ、芸術がお金に左右されるものではないということを、人はむかしからちゃんと心得ていたはずではなかったのでしょうか。貧乏詩人というと、ただそれだけで好意を示すような人にかぎって、芸術は神聖だ、などとつぶやくので私はとまどってしまうのです。 芸術家と呼ばれる人々も、他の人々と同じようにお金をもつべきだと思います。お金をもったら消えてしまうような作品のきびしさは、きびしさではありません。 (山口泉/お墓の中のパパ ISBN:4783708401)
話がホーボーへとんだまま、さらにまったく話をとばして、

一夜あけてみれば、見事な落書き。
その昔イラクで人質事件が起こった時浅田彰が2ちゃんねるの一連の書きこみに対し「ただ、そういう場所ではあくまでマイノリティとして──いわばマイノリティとしての矜持をもって発言すべきでしょ。」と言っていたのを読んだおれは「ああ、このおっさんかっこいいことゆうなあ」と思いつつも、ただ、かっこいいからこそ、それはかっこいいだけで、どおにもこおにもいまいち意味のない言葉であるよなあ、なんて思ったものであって、それは関西弁でゆうところの「そんなことゆうてみてもしゃあないがな」とゆうやつである。この落書きをみて、どおせ人知れず書くのならばもっと政治的社会的に困難な場所でやればいいのに、なんて呟きそうになった俺であるのだが、寸手のところで思いとどまって、落書きは落書き、「そんなことゆうてみてもしゃあないがな」と、おのれを納得させてみたのだけれど、ここはおれのお気に入りの場所なのであった。
