はてなダイアリー平民新聞

創業2002年か2003年、平民金子の元祖はてなダイアリー日記です。

丁度十年前になる。TV番組に水俣病を選んで、私は優秀なキャメラマン・原田氏と一しょに患者多発部落・湯堂に初めて入った日、私は部落の人々の嫌悪の眼を知らされた。丁度、水俣病は後遺症のようにあつかわれ、全く部落の中に封じこまれていた昭和四十年の二月であった。ワイド・レンズで部落の全景をとっていると、一軒の庭先で主婦たちがさわぎ出した。私はそこにいた患児に気づかなかったのだが、人々は無断でとったとして激しく私たちを責めたてた。私は弁解の言葉もなくそれをきいた。その後から、完全に私は思考力もことばもまともでなくなってしまった。つまり、壊れたのである。「水俣病をとる資格はない」という直感から、「映画をとる力はない。もうやめよ」という自分の声がとめどないのである。どこにカメラをむけることも出来ず、舟つき場の石垣の上に立ちつくした。もし、宿に帰っても、この金縛りの気持ちはとけない。もし、東京に帰っても、いま私を襲っているもの、行動と意思の大事な根っ子を打ちくだかれている以上、もう映画は二度ととれぬポンコツとなるしかないと思った。身うごきすることも、カメラマンとまともな話も出来ず、眼をあげて部落を仰ぎ眺めることも出来ず、ただおどおどと震えていた。このニ、三時間。
 そのうちに伏し眼がちに見る海の底にすきとおって、しじまに光る、茶わんのかけらがあった。青いごすのきれいな陶片である。「これに焦点が合うかな?」と言い出したことがきっかけになって、二人で海底のセトモノを黙々とあれこれ時間を費やして何カットも撮りつづけた。水俣病に何の関係もない画面である。それを撮ることでしか私たちは始まらなかったのである。つまり、足ぶみの記録でしかなかったのだ。しかしそのことでのみ、辛うじて映画作家としての根底からの挫折に耐えることができたのである。この体験からしか、今日までの水俣病とのかかわりも生まれなかった。セトモノのかけらの撮影の一ぶしじゅうは恐らく一生忘れないであろう。
(逆境の中の記録/土本典昭)ISBN:462441022X


持続することだけを胆に銘じて野たれ死にするまでやってみたいのである。
(同書)