(現代詩読本「現代詩の展望」)
●北川(透) 今*1の新しい詩人たちにははっきりとした敵が見えにくいあ るいはいない。それから攻撃的な詩人がいないということをおっしゃって、確か にその通りだと思うんですけれども、敗戦直後から六十年代までの詩と、今の詩 とひじょうにはっきり違うところは、そのことと多分関係すると思うんだけれど も、例えば孤独だとか反逆だとかいうことについて、孤独な人は孤独というふう に表現すれば多分表現が成り立ったわけですね、それはメタファーを使おうと喩 を使おうといいわけですが。それから反逆している人は反逆していると表現すれ ば多分成り立った、それが戦後詩の世界だと思うんです。けれど今はそこが ちょっと違うような気がするんです。すごく孤独であることは今の詩人たちも同 じだとぼくは思うんです。同じなんだけれども、それを表現するところまでに屈 折があって、孤独を孤独として表現したり叫びを叫びとして表現しちゃうと詩が 成り立たない。そこのところで趣味的になっちゃう危険性もあるんだけれども、 深層と表層の間で屈折しないと詩が保てないという感性がひじょうに強いように 思うんです。 ー中略ー ●大岡(信) (略) それはおそらく戦後詩が無意識的前提としていたある種の善意を基調とした対社 会態度があるわけですね。わたしは善き目的を心に持っているんだからわたしの 語る言葉はそれに従って判断してもらいたいし、そういう表現になっているはず であるという無意識の前提が戦後詩にはたくさんあるわけです。ここ十年くらい の間に若い詩人たちはそれについてさまざまな不満と批判をくりかえしてきた。 それは確かにその通りで、戦後の詩で当時の人々が感動したような詩であっても 現在みたら単なる活字で印刷された退屈な決まり文句の類にすぎないということ もあると思うんですよね。そこに社会と個人の言語意識の間に生じたひじょうに 大きな価値転換はあると思える。その結果としていま北川さんが言ったような若 い詩人たちにおける屈折した表現意識が出てくるというのは当然だと思います が、その場合にも、問題はおそらく、次の点にあるでしょうね。つまりそれぞれ の人がそれぞれ独自の屈折をした場合に、その屈折は自分自身ではよく感じ取れ ていても、他者が見た時には感じ取れないという問題が具体的に出てくるわけ ね。 (ー後略) (「戦後詩の歴史と理念」鼎談 鮎川信夫・大岡信・北川透)
*1:1986年の鼎談です