といっても総理大臣のことじゃなくって。
池袋のサンシャイン古本市場をぶらついてたらおもしろい本みつけた。
- 「小説 天皇裕仁」小泉譲・・・荒地出版社 1960年 初版
これは天皇を「ワタシ」という一人称で描いた小説で、もちろん内面描写
なんかも出てくる。例えば
ワタシは表情をもたない男だと言われる。喜怒哀楽の感情があっても顔に現れなくなっているのは、自己不在の自分に耐えるという緊張の生活をながい間、強いられてきたからではないだろうか。ワタシは一つの狂言を繰り返えし(ママ:金子註)演じ続けている俳優のようなものかもしれない。表情がないのではなく一つの表情しか現われないのだろう。シカシ、ワタシにも舞台以外の楽屋の生活も皆無ではない。良(なが:金子註)宮ならそれを知っていてくれる筈だ。ワタシは妻と二人だけでいる時は、『天皇』でもなければ『大元帥』でもない。単なる一人の人間として心おきなくふるまえる。
<中略>
ワタシは喋らないせいか、回帰神経が退化して声帯のコントロールがうまくつかない。活字をそのまま声にしたようで、ニュアンスに乏しいようだ。歌などもうたったことがない。だが、別にそのことでワタシ自身はどうということもない。誰とでも心やすく語り合う機会にも恵まれず、許されてもいない。ワタシの本意ではないが、立場がそうさせるのである。
さて。こんなんで「内面描写」といえるのかどうかはまあ置いといて、とりあえず中略以降の文章を読むと作者の身の安全が心配になってきます。
後書き
それにつけても、この種の小説が書けるという自由な時代になったことは、私たちの世代のものにとっては夢のようであります。その意味では敗戦に伴う大きな犠牲もあながち無駄であったとは言えないと思います。今日ほど皇室と国民の間に親近感の溢れた時代がわが国にあったでしょうか。時代の変化をまざまざと感じざるを得ません。
たしか(うろおぼえなので間違えてるっぽい)この年(1960年)の12月に深沢七郎「風流夢譚」、新年が明けて大江健三郎「政治少年死す」発表だった気がするけど。
自分の書いた小説が殺人事件にまで発展してしまった深沢七郎は
流浪の終点は死である。ボストンバッグを一つ持って出掛ける。自分の部屋から出て行く。ベビーダンスや本棚から離れること、持っているものから離れるのだ。それから家族や友人や貯金通帳とも離れるのである。なんと素晴らしいことだろう、裸で生まれてきたのに生きているうちにいろんなものが纏いついてしまう。それは、ダニだ。持ち物、家族、友人、ダニだよ、流浪はそのダニから離れることが出来るのである。
とか言いながら(これは「流浪の手記」前書き:ちなみにこれが書かれたのは1967年で、事件と年代ずれてっけど文章かっこいいので引用)、右翼に自分を「殺してもらいに」北海道に渡っていくのでした。