水色

 二時前くらいに寝ているのに五時頃には目が覚めてしまうのが最近の、悩みとも言えない悩みで、今日も同じように真っ暗な中で目が覚めた。今は何時頃だろうかと闇の中で手探りでスマホを見つけてボタンを押したけれど電源が切れていて反応しなかった。そのまま寝ていようかと思ったがいつものように目が冴えて、なんとなく時間を確認したくトイレに行くついでにスマホを充電器をさしこんで、トイレが終わってから時間を見ると、まだ間に合うかな、と思って靴下をはき、玄関にぬいだままになっていたジャンパーを羽織ってそのまま外に出た。外に出る時に持っていく物で一番大事なのはスマホ、二番目はカメラかな。この2つを持って行かなければ昔のままだ、なんて思い、スマホとカメラを持たずに手ぶらで自転車に乗る。東遊園地まで行き、そこで聞きたかった話があった。着くとちょうどスピーチの途中で、なんとか間に合った、と思った。ぼんやりと立ったり座ったりしていると、空がだんだんと蒼く蒼くなってくる。空を見上げて息を吐くと街灯や会場のライトに照らされて真っ白い息が見える。6時半頃、何をするでもなく、人もだんだん少なくなって来た芝生で座っていると、後ろに立つ若い男女の話し声が途切れ途切れに聞こえてきた。僕はあの時1歳になってなかったんです。8ヶ月で。その日はオヤジが朝早くから作業で車に乗って阪神高速に乗ってたらしいんですが、あの倒れた所あるじゃないですか、(途切れる)だから色んなことがたまたまなんやな、と思うんです。わたしはなんとなく、親がおおいかぶさって来た事を覚えてる。でもわからへん。ほんまにそうなんか。覚えてる、と思うんやけど。そのまましばらく、自分の白い息を見たりして、立ち上がって後ろを振り向いた時には、誰もいなかった。海沿いを自転車で走っていると、海も空も青い。青いというより、朝になる前の一瞬の空白のような、水色。空も海も水色だなと思った。

テレビを切られて不機嫌

 朝、子供が食べ残していった食パンの耳とプチトマトがあったので、それをサッポロ一番塩ラーメンを作る時に一緒に煮込んでみた。なんでも経験だと思ったからだ。ついでに、犬のごはんを作る時に薄く薄くスライスして残ったみかんのひと粒も煮込んでみた。プチトマトはいつものことだから別にいい(おいしいです)。うーむ…「合わないこともないな」と思ったのが食パンの耳。汁を吸ってやわらかくなって、お麩みたいになる。問題が多いぞと思ったのはみかんだ。こんなもん入れて何がしたいねんという味だった。これが、案外まずくはないんだ。でも「これだったら入れないほうがいいやろう」という中途半端さと言おうか。中途半端がすべて駄目なわけではない。「これだったら入れないほうがいいやろう」という中途半端さだった。レモンを入れたほうが10億倍良い。柴崎友香「寝ても覚めても」冒頭のビルから街を見下ろす場面の描写を読む。遠景の街の描写からの「コートのポケットに突っ込んだままの手は、この数週間入れっぱなしになっている安全ピンの針のところと留め金のところの感触の違いを行ったり来たりしていた。」ここの幅がいいなあ。一度読んだ本をもう一度読む時の気楽さが好きだ。最後まで読まな、みたいなプレッシャーがないし、どこから読んでもいい。やはりどこから読んでもいい本って素敵だな。一度最後まで読んでしまえばどんな本もそんな感じになる。メールを何個か書いていたらけっこうな時間がかかった。ようやく2月29日の1003でやらせてもらうイベントのタイトルを決めて、檄文みたいなものを書いて、あとは告知が出るのを待つだけ。夜は和久田さんがしゃべるFM802を楽しみに待機。それまで子供は「のび太の海底鬼岩城」を見ていたものだから、テレビを切られて不機嫌になっていた。来月のイベントの準備をしようと思う。あとフェリシモのやつの締め切りが1日過ぎている。ひかりさんは臨時休業。

スプラトゥーン愛好家

 毎日書く事をルーチンにしてしまえば案外書けてしまうもので、これはこれで退屈だなと思う。書けてしまう。悔しい。先日歯科検診に行くと、前回は見られなかった歯の揺れが見られるので、ストレス等はないですか?みたいな話になり、マウスピースを作ってもらう。保険が適用されて2千円ちょっとだった。夜中2時頃に寝たはずなのに朝4時に目が覚める。そのまま寝られず「遠の眠りの」読む。2月9日に旧グッゲンハイム邸でトークイベントに出させてもらうんだけど、先日六條さんがそのフライヤーを手に持っていて「ちょっとウエちゃんから聞いといてって言われたんやけど」「はいはい、なんですか?」みたいなやり取りをしたところで当のウエちゃんが通りかかって「おにいさんは普段はこういうオカマやってるの?」と聞かれる。なんの事かと思えば、旧グッゲンハイム邸に提出したプロフィール写真はBeautyPlusというお化粧アプリを使っていてアゴを細くしたり頬を赤くしたり目をぱっちりさせたりみたいな加工をしていたからだった。「この写真はスマートフォンのアプリを使って加工してるだけなんですよ」「そうなん。化粧して写真撮ったんと違うんか」という会話。その後で六條さんが「僕もわからへんことがあったんやけど」「はい、なんですか?」「このプロフィールにあるスプラ……ゆうのは何?」「あ、これはスプラトゥーンっていうゲームの名前です。僕が大好きなテレビゲーム」と説明。今回のやつはプロフィール欄の肩書きを「写真家・文筆家・スプラトゥーン愛好家」と書いたのだ。それで「スプラトゥーン」て何やろう?と前日に国語辞典で調べたけれどのっていなかった、そうだ。「戦ったりするゲームなんです。僕これのやり過ぎで視力がめっちゃ落ちまして」という説明をする。すると六條さんから「そうなんや。昔の映画のプラトーンとは違うの?」と聞かれて「ちょっと違いますね」と説明する。

8×4 

 姉が大昔、あれもう何十年前や、たぶん三十五年くらい前に、停車していた自動車の右側を歩いていたか自転車で走ったか忘れたけど、そしたら急にドアが開いておでこを切る怪我をした。運転手はごめんごめんとお詫びのしるしに姉に8×4(エイトフォー)を渡した。けっこうな怪我だった気がするんだけど当人は小さなスプレー缶を誇らしげに持っており、何よりも私自身が、それがうらやましかった。ただただ「ええなあ」と思って部屋に漂うにおいをかいだ。同時に、車の横を走っていたら扉が急に開く、というイメージがあまりにも鮮烈で、恐怖のイメージとして残り、今になっても私は自転車等で停車中の自動車の横を通る時はぞくっとするし、相当注意深い。ただそれって別に損なわけじゃなくて、実際運転席側だけじゃなくて、助手席や後部座席(こっちのパターンの方が多いんじゃないか)が突然開くというのは町なかでも普通にあることだから、そこに本能的に注意深くなれたのはありがたい。今日も停車中の車の真横を通ってあの時の8×4を思い出した。
谷崎由依「遠の眠りの」p101主人公が百貨店の中をうろうろ歩いている場面の一節「野葡萄の暗い赤、暮れかたに野原を歩いていてつい行きすぎてしまうようなときの、ふいに出会う、冬の気配。」こういう言葉の連なりはとても良い。iPhoneの絵文字はあまりかわいい印象がないけどチューリップ(花)だけはかわいいと今日思った。他にもかわいい絵文字はあるのだろう。気づいていないだけだろう。なぜそれに気づいたかと言うと妻が市場でチューリップ(骨付きからあげ)を買ってきたからだ。このチューリップおいしいなみたいなメールをして、その時に絵文字が出てきた。夜はFM802へ。以前ラジオに出た時はリハーサルがあって同じ言葉を本番と計2回言うのがとても苦手だと思ったが今回は一回しゃべればいいだけだったのでありがたかった。終わって但馬屋へ。

控室の扉が少し開いていて

 柴崎友香さんとのイベントに行く前に今日は昔うろうろしていた大阪城公園らへんをうろうろしようと計画していて、朝起きてまず松屋(立ち食い)に行き、帰って風呂に入ろうとして着替えを箱から出していたついでのようにクッションに寝転んでたらそのまま二時間くらい寝てしまった。起きた頃には時間に余裕がなくなっていたので風呂の中で「寝ても覚めても」の映画を少しだけ見た。この作品の本を読んで、映画を見て、tofubeatsの音楽を聴いているとなんかぐわんぐわんとなる感じ、それを説明したかったのだがそれは難しく、結局「おもろかったですわ」みたいな感想になって、まあそれはそれで、別にいいか。時間前に着いても緊張するだけだから今日も時間ぴったりに着いて、そのまま壇上に行こうと思ったら控室の扉が少し開いていてちらっと柴崎さんが見えた。これ挨拶した方がええんかな、と一瞬思ったけど挨拶したって緊張するだけやんけと思って無視して壇上の椅子に座った。今日のテーマのひとつは「シラフでしゃべる」というもので、この体験は貴重だった。うむ。酒である程度ほぐしておかないとなかなか言葉が出てこないんだけど、でもそんな中でもこう、試運転みたいな感じでしゃべり出して、少しづつ慣れてきて言葉がたくさんになる感じ。経験できて良かった。私にとって最近、文藝で連載されている柴崎友香・岸政彦「大阪」はディープインパクトで、その話を多くしたんじゃないかと思う。これから大阪に引っ越して柴崎・岸の連載を倒す、みたいな事も言ったんじゃないか。それを言った直後に、「でもまあそもそも対等みたいな感じで名前を呼ばせてもらっていいお二人ではないんですけどね」みたいな謙遜を入れようと瞬時に思って、でもすぐに「ここで言いわけみたいな謙遜挟んでどうすんねん、地の果てまで強気で行けや」という声も聞こえた。私は本番でどうしたんだっけ。強気でいけただろうか。忘れちゃったな。

かまぼこの板

 かまぼこを切るたびに思い出すのだが、かまぼこって身と板に別れてるじゃないですか。子供の頃、母親がかまぼこを切った後の、板にまだ残っている薄い身(かまぼこ)を爪とか歯でこそいで食べるのが大好きだった。何もなくなった板もしゃぶっていた。かまぼこ本体は特別好きでもなかったけれど、板に付いたかまぼこの残りカスみたいなやつは三食それでもええわってくらいに好きだった。それで、いま台所に立ってかまぼこを切る立場になって思うのだが、かまぼこって別に、切るのが難しくてどうしても板に一部残ってしまうような物ではなくて、何も残らない感じで板から切り離すのは別に簡単なことなのだ。なにも難しくない。で、私は子供の時はかまぼこってのは料理に使う時には必ず板にくっ付いた余剰分が出る物だと思っていたけれど、あれって、私がよろこんで食べるものだから母親がわざと板に若干残る感じで切っていただけなのだろう。そういう事が、子供もかまぼこの板よろこんでしゃぶるかなとか思って、板に残す感じで切ろうと思っても、普通に切ってりゃ身は板に残らないからわざと下手くそな感じで身を板に残して切って「これ美味いで」みたいに渡した時に思うのだった。子供は別に好きではないようだった。そのかわりというかなんというか、かまぼこ本体は好んで食べている。板が美味いのに、と思う。午前中、用事があって三宮へ。ジュンク堂で、これを書いてる今思い出したんだけど中公文庫の武田百合子の日々雑記を探していたんだけど(持ってた本だけど三鷹に住んでいた時近所に水中書店が出来てなんかめでたい気持ちになり当時の蔵書をほとんど売った、その中の一冊だった)、いざ棚の前に立ったら何を探していたのか忘れてしまって、そのかわりに大岡昇平の成城だよりを見つけて立ち読みしてたらおもろかったので買った。中公文庫の棚の横がちくま文庫で、ついでにそこもぼんやり見ていたらおもしろそうなやつがあって買った。 

暗いのが好きなん?

 夜中の二時過ぎに寝た気がするが、四時ころに目が覚める。起き出してフェリシモの原稿を書いて仕上げる。目が冴えたのでそのまま起きていたがやはり午前中眠くなり昼まで寝る。妻子は出かけた。二度目のハッピーアワーを見る(部分)。一度目よりも人物の背景がわかっているのでスムーズに見れる。ワークショップ打ち上げで純と鵜飼が目が合うところのカメラの正面からの切り替わりとか、こずえの朗読会の相手は鵜飼さんでどうやろ?と拓也から聞かれた芙美が「ワシ仕事とプライベートいっしょにしたくないねんなあ」と言った後、そのまま拓也が会社に行って、部屋に残った芙美が「言うてもた…」みたいな感じでソファーを二、三回たたく所、その後で拓也が忘れた車の鍵を見つけて、拓也がそれを取りに家に帰ってきて、「さっきの話(鵜飼をゲストにする件)やけど一回聞いとくわ」みたいな感じで言葉や関係の「やり直し」というか再生がおこなわれる所とか、おもしろい。
 昨夜、市場に子供がたくさんいた帰り道、見上げるとまぶしくて丸い月が出ていたので、自分としては大きな声で「お月さんがめっちゃ明るいで!」と発声したら完璧に無反応だった。別にええわい、そりゃそうやで、月が綺麗とかは年とってからの趣味やわなみたいに思ったが横にいた子供が宙ぶらりんになった私の言葉を(ほならワシが受けるしかないのか)みたいな感じで、「お月さんが明るくなってこのまま太陽になったらどうする?」と語りかけてきた。心の中で頭100回なでた。今朝、風呂場で原稿を書いている時にそれを思い出した。朝、書き終わった頃にはみな起きていて、子供は部屋の電気を暗くしている。「暗いのが好きなん?」と聞くと「夜が好きやから」と言って笑っている。昨日遊んだのがおもしろかったんかなと思って「なんで?」と聞くと「夜はNetflixが見れるから」との事。午後四時、すでに今日の日記を書いてしまった。