「平民金子展」について

二十代の自分はこれ以上ないほどに鬱屈しており、そういう時は肉体労働に限ると毎日有楽町線に乗って夜勤の現場に通った。ほぼ同じ時期にそこで出会った2人に、写真に関して大きな影響を受けた。最初の一人は東京綜合写真専門学校で学んでいたT君。彼は私に、写真というのはそれを学ぶ専門学校なんてものがあるほどに奥の深い世界なのだという、今から振り返れば笑ってしまうほどに基本的な事を教えてくれた。プリクラであるとか記念写真であるとか、そういった写真の世界しか知らない自分は彼の口から出て来た須田一政や渡辺兼人、柏亜矢子の名前を覚えた。かぼそい糸をたぐって、近所に出来たばかりのジュンク堂池袋本店に通い奈良原一高や東松照明、深瀬昌久、その他多くの偉大な写真家の名前を覚えた。

 もう一人は「明るい部屋」という日記で書いたOさん。

明るい部屋 - 平民新聞

彼からは、理屈はいいから部屋を出て、あんたでも今日から出来るんだから、写真を始めろよ、という実際的な色々を教えてもらった。私を外の世界に引っ張り出してくれた恩人であり、今だに唯一の写真師匠である。初めて自分のカメラを持った日、遊びに来いよと誘われたOさんの部屋の窓の外にはどくだみの花がたくさん咲いていて、小さなテーブルの上には「A Rose For Emily」と題された洋書があった。さりげなく置かれているけれどこの人、ぜったいにわざわざこの本俺が来る事を想定してセッティングしたで、と思って、私は彼のそういうカッコつけな所が好きだった。Oさんも私も嘘だらけの人生だったがその日の夜電気を消した彼の部屋で天井を見ながらしゃべっていると涙がこぼれてきた。あれから十五年がたったのだ。

私の場合、写真を撮る事は、表現である以前に、自らを救う行為であった。この感覚ばかりは人に説明出来るものではないし、誰かとわかり合えるものではないし、わかってもらう必要もない。部屋の外に出て、真っ昼間の日差しの中でNew FM2の小気味良いシャッター音が耳に頭にダイレクトに響いて、シャッターボタンを押して音が鳴るごとに憑き物が落ちていく感覚があった。私はそのとき束の間の、自由を感じていた。 

何度も「個展でも開けば?」なんて言われた事がある。そう言われてもどう反応をしてよいのかわからない。いまだに自分はシャッターボタンを押しこんだ瞬間にすべてが終わったような感覚がある。

写真だけは膨大にあるから後の事を全部やってくれたら何でもやるけど。

そんな事を言って、何かをしてくれる人なんてさすがにいない。でも幸か不幸か、いないならいないで別に困る事もなかった。ただ写真を撮り続け、それから神戸に引っ越した。

神戸という町が何か特別だとは、そこに住む人たちが何か特別だとは思えない。けれど結果的に、神戸に越して来てから自分の環境は大きく変わった。

神戸市は看板となるブログの書き手として私を選び、「写真を撮る。そこから後の事を全部やってくれたら写真展でも何でもやるよ」というこれまで言い続けてきたセリフに対し真正面から「じゃあ、やりましょか」と言ってくる人たちがあらわれた。やっぱり神戸って変なところなんだろうか。

私はいつもの通り写真を撮り、ちょっと頑張って文章を書いた。

その他はすべて人にまかせた。会場選びもフライヤーのデザインもフライヤー配りもZINEのデザインも製本も写真のセレクトも展示も何もかも。

今回のように、誰かが自分の写真や文章や詩(詩なんて何年ぶりに書いただろう)のために動いてくれるという事がどれだけ稀少な事か。このような機会はもう二度とおとずれないだろうと理解している。

写真との付き合いもそれなりに長くなった。今の私の写真にはかつてのような重さや情念はない。ただ日々追われる生活の中で、何を託すこともなくシャッターを押している。そこにあるのは神戸の町や、風や、空気だけで、もう救われたかった私はいない。

平民金子展 「ごろごろ、神戸。もうひとつの世界」が、とても楽しみなのだ。

 

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